祭典諸行事では取材のため、参拝・参加者の写真およびビデオ撮影を行い、機関誌や大本のHP、YouTubeの「大本公式チャンネル」などにアップすることがあります。詳しくはこちら

エスペラント活動

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エスペラント教材「世界と話そう!」(月刊『みろくのよ』からの転載)は こちら

エスペラントとは

エスペラントの創始者 L・L・ザメンホフ博士は、1859年、ポーランド(当時は帝政ロシア領)のビヤリストクに生まれました。当時のビヤリストクは、ポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人、ロシア人など多くの民族が住み、それぞれが異なる言語を話していたばかりでなく、カトリック・プロテスタント・ロシア正教・ユダヤ教など、信仰も異なり、争いが常に絶えない状態でした。
こうした状況の下、ザメンホフ博士は多くの言語の特長を取り入れた国際共通語「エスペラント」を創案し、1887年に発表。そこには、民族と民族、宗教と宗教が平和に共存し、人が人を差別することのない、平和な世界の実現に対する熱い思いがありました。

世界には現在、大小さまざまの言語が5000以上あるともいわれます。それら各国・各地の言語を尊重しながら、国際交流の場では、中立で公平なエスペラントを使用しようというのが、エスペラント活動です。

〝一つの世界〟実現のために

1923(大正12)年、出口王仁三郎聖師は、「国際語エスペラントを学習するように」と、側近の加藤明子に命じました。
突然のことにとまどった加藤でしたが、たまたま京都大学に在学していた高見元男(のちの三代教主補・出口日出麿)から送付されてきた新聞記事の切り抜きによって、同志社大学でエスペラントの講習会が開かれていることを知り、受講。
以後、大本ではエスペラントを積極的に採用することになり、エスペラント研究会(現在のエスペラント普及会)が設立されます。

当時、聖師はエスペラントに関する次のような講演をしています。
「開祖の筆先に、いろは四十八文字で世界を統一するという意味があります。神さまは予言者の智性意志、記憶を基礎として神意をもらされるものであるから、かくお示しになったのであります。今後の大本の使命は、めいめいに手分けして神の国の福音をあまねく宣べ伝えることです。ついては、今日のように世界各国の言葉が分かれていては至難なことです。けれども、世界共通語のエスペラントは、わずか二十八文字で通用し世界へ行き渡っているから、この語を研究して神意を世界へ宣伝するというのは、神意にかなったことであります」

1925(大正14)年には、機関誌「ラ・ヴェルダ・モンド」(緑の世界)がエスペラント普及会から発行され、各地で講習会が催され、大本の分所や支部に、百有余のエスペラント普及会支部が設置されるに至りました。
1936(昭和10)年の第2次大本事件からは10年間中断せざるを得ませんでしたが、エスペラント普及活動は、1946(昭和21)年、「愛善苑」として教団が新発足するとともに復活します。その後は、以前にも増して教団内のエスペラント運動が盛んになりました。

1963(昭和38)年にエスペラント普及会設立40周年を迎え、亀岡市・天恩郷の一画に記念碑が建立されました。
碑面には「Unu Dio, Unu Mondo, Unu Interlingvo」( 一つの神、一つの世界、一つの共通言語)と刻まれています。
大本とエスペラント普及会(EPA)は、言語の障壁を取り除き、世界の平和と人類の和解を促進するため、各国語の尊重とともに、世界共通語エスペラントの国際的実用化を目指し活動を進めます。