祭典諸行事では取材のため、参拝・参加者の写真およびビデオ撮影を行い、機関誌や大本のHP、YouTubeの「大本公式チャンネル」などにアップすることがあります。詳しくはこちら

霊場(霊山・霊地)

霊山・霊地

大本では、京都府綾部市にある梅松苑、亀岡市にある天恩郷を二大聖地とし、沓島・冠島、神島、弥仙山、厳の郷、瑞泉苑、高熊山、鉢伏山などの神縁の地を霊場として祭典を執行しています。

沓島・冠島
神島
弥仙山
厳の郷
瑞泉苑
高熊山
鉢伏山

沓島・冠島

沓島(めしま)・冠島(おしま)は、日本海の若狭湾国定公園の海上に浮かぶ無人の小島で、舞鶴湾から北に約30キロの地点にあり、梅松苑からは東北(艮・うしとら)の方角にあります。
明治33年旧6月8日、「こんど二度目の世の立替えについて、冠島にまいりてくだされよ」との神示のまにまに、出口なお開祖、出口王仁三郎聖師、出口すみこ二代教主はお供の2人と共に冠島開きの神事を行いました。
その1カ月後、「こんどは沓島も開いて下されよ」との神示により、明治33年旧7月8日、開祖、聖師、二代教主により沓島開きの神事が行われました。
沓島では海上から30メートルほどの高台にあった1坪あまりの平岩に、綾部から持参した神祠(ほこら)を建立し、国常立尊(くにとこたちのみこと)さま、竜宮の乙姫さまをはじめ、世に落ちておられた神々さまを鎮祭し、世の立替え立直しを祈願しました。
明治38年旧4月10日、開祖が沓島にこもり、世界平和を祈願しました。これを沓島ごもりといいます。

神島

神島(かみしま)は兵庫県高砂市の西南海上、約10キロに位置する無人の小島で、綾の聖地から西南(坤・ひつじさる)の方角に位置します。
大正5年6月25日(旧5月25日)、出口王仁三郎聖師と出口直日三代教主をはじめ一行60人は、3隻の船に分乗し神島に上陸。聖師を先頭に生い茂る矢竹を切り開いて進み、高台の平地を斎場にしました。聖師は竹で弓矢を作り、東北(艮・うしとら)と西南(坤)の空に向かい弓を射る型をして四方を祓い、神祠(ほこら)に坤の金神を鎮祭し、その神祠を捧持して帰途に就きました。28日、綾部の龍宮館に神霊を奉迎。その意義は艮の金神と坤の金神のご対面にあると解されています。
次いで、9月8日(旧8月11日)には、聖師をはじめ一行6人が再び神島に渡り、海岸の岩の洞穴で神宝を受け、綾部の金竜海の大八洲の岩戸の中に納めました。
さらに10月4日(旧9月8日)には開祖、聖師、二代教主、三代教主および出口家、信徒の一行が神島に上陸し、坤の金神の鎮座祭が執行されました。
この3回の神島まいりを「神島開き」といい、冠島・沓島開きと共に最も重要な神事とされています。

弥仙山

綾部盆地の東北に位置する弥仙山(みせんざん)は梅松苑から約20キロ、綾部市於与岐(およぎ)町にある標高664メートルの霊峰です。
山頂の金峰山(きんぷせん)神社には木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)がお祭りされ、中腹の中の宮(於成神社・おなりじんじゃ)には彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)が祭られています。
金峰山神社は国常立尊(くにとこたちのみこと)さまが、舞鶴湾の沖合いにある沓島から綾の聖地にお帰りになる途中、明治41年の節分の夜から約2年間ご滞在になった因縁深いお宮です。
明治34年に出口なお開祖が「岩戸がくれ」を行い、それから世界が「暗がりの世」になり、明治36年旧4月28日に開祖、出口王仁三郎聖師、出口すみこ二代教主、出口直日三代教主がそろって参拝し、二度目の天の岩戸開きがなされ、明るい日の出の御代になったといわれます。この神事を「岩戸開き」といい、木花咲耶姫命の仲介で艮(うしとら)の金神さまと坤(ひつじさる)の金神さまとの間に和合ができました。また、世に出ておられる神さまと、世に落ちておられた神さまとの間にも和合ができたこと、さらに大本に世継ぎが授かり、四魂がそろったお礼の参拝でもありました。

厳の郷

厳(いづ)の郷(さと)は出口なお開祖の生家跡で、京都府福知山市上紺屋(かみこや)町に位置します。平成31年の節分大祭(2月3日)に合わせて整備され、大本の新たな霊場として加えられました。敷地中央には開祖の産湯として使われた井戸が残っています。

瑞泉苑

瑞泉苑(ずいせんえん)は出口王仁三郎聖師の生家である上田家があった所で、亀岡市曽我部町穴太に位置します。聖師は後年、「寝ながらに月を仰ぎしあばら屋のむかしの住居(すまゐ)吾眼(わがめ)に新(あたら)し」と短歌を詠み、幼少期の極貧の暮らしを懐古しています。現在は聖師の産湯として使われた井戸「玉の井」と、久兵衛池が当時の面影を残しています。

高熊山

高熊山(たかくまやま)は天恩郷から西南へ約5キロ、亀岡市曽我部町穴太にある、標高354・9メートルの霊山です。
明治31年旧2月9日、出口王仁三郎聖師は数え28歳の時に、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の神使・松岡芙蓉(ふよう)仙人に導かれ、高熊山の岩窟で1週間、顕幽神3界の修行を行い、天地の大恩と救世の天命を自覚。人類救済の教えを授けられました。
この修行の際に見聞した過去・現在・未来、また、神界・幽界・現界のありさまを、大正10年から『霊界物語』として口述しました。
聖師は『霊界物語』の中で、高熊山の修行での霊的発達の程度を、「幼稚園の生徒が大学を卒業して博士の地位に瞬間に進んだような進歩であった」と述べています。
聖師の高熊山入山60周年を迎える前年の昭和32年には、岩窟一帯が亀岡市穴太区から大本本部に無償譲渡され、大本の所有地となりました。

鉢伏山

鉢伏山(はちぶせやま・標高1221メートル)は兵庫県美方郡香美町にある霊山で、但馬、因幡、美作、播磨にその裾を引き、須賀の宮居の跡もある須賀山、氷(ひょう)の山(せん)と対峙しています。
昭和21年5月22日、出口王仁三郎聖師、出口すみこ二代教主は、島根県の出雲大社参拝の帰途、大笹村の龍宮神社に参拝。翌23日、当時竹田(兵庫県朝来市)に住んでいた出口直日三代教主もそろい、鉢伏山に登山しました。その当時はトチ、ケヤキ、ブナの老樹の生い茂った原生林で、道なき道を行く困難な登山でしたが、山頂では鉢伏山開きの祭典が厳かに執行されました。
聖師は鉢伏山について、「主の大神さまが鎮まり、八力の大神ととなえ、お山全体がご神体である」と示しました。昭和40年5月15日、山頂のみろく岩の前に「石の宮」が建立され、23日には三代教主臨席のもと開山20周年記念参拝が行われました。