
心の処方箋
人生お悩み相談
人生を生きる中で、浮かんでくる悩み、その悩みを一人で抱えずに誰かに相談してみませんか?
ここでは、そんなお悩みに大本の宣伝使がお答えします。
この世で限りある命を頂いている私たちは、年齢を重ねるにつれ、数々の別れを経験し、真摯(しんし)に向き合い、乗り越えていかなければいけません。まず、亡くなられた方の魂の霊界での向上を祈念させていただき、その上で、現界での修行について、その方の運命と宿命について、一緒に考えさせていただきましょう。
大本では、人が先天的に持って生まれた境遇や使命、本人の意思ではどうすることもできない要素を「宿命」といい、宿命に沿って生かされていく中でも、本人の努力によって開拓してゆける人生の道筋を「運命」と、教えられています。
私たちはどうしても現界的に、亡くなった方の年齢や最期を迎えられた形にとらわれてしまいます。しかし、霊主体従の大原則を鑑みる時、魂は相応の理によって現界で肉体を使って向上を図り、修行をさせていただいているのです。一人一人、神さまから頂いた使命…宿命は異なりますが、現界での人生…運命を全うし、神さまからお許しを頂いた期間を現界で修行させていただいて、魂の故郷である霊界に帰るのです。
残されたご家族や友人は、その方の人生の修行の姿を尊ぶことが大切です。相応の理により、善言は善意を呼び起こし、悪言は悪意を呼び起こすと教えられています。亡くなられた方の死を必要以上に悼むことは、その想念が、亡くなられた方の魂の向上にも影響を与えかねない、現界と霊界との相関関係があります。
現界での経験は、生かされている私たちに無限に積み上げられてゆきます。一人一人に課せられた人生を常に向上心を持って全うするためにも、ひとときの悲しみに足を止めすぎず、一呼吸して歩みだす勇気が必要です。亡くなられた方も、天界からそのお姿を見守っておられます。
その方との出会いや共に過ごした時間は魂の糧となり、別れもまた、魂の大きな力となって、その後の人生に生かすことができるでしょう。
お知り合いの方は、あなたのご助言を待っておられるかもしれません。(t)
いつもと雰囲気が違い、落ち込んでいる様子を感じたとき「どうしたの?」「何か心配事でもあるの?」と、身近な友人や同僚であれば、あまり気を使うこともなく声をかけると思います。しかし普段そこまで親しくしていない、例えば、同じ職場でミスをして迷惑をかけてしまった、という同僚がいて、その人が落ち込んで悩んでいる様子を目の当たりにしたとき、どう接したらよいのか。
「その根本において、一切のものに対して好意をもって接することが大切である」「その心の底に好意がひそんでいる際には、なんとはなしに一種の感銘をうけるものである」との出口日出麿尊師さまのお示しがあります。
まず、心の底から好意を持つこと、言い換えれば相手の気持ちになって親身になること。そして、その人の思いを尊重して「お仕事ご苦労されたんですね、大丈夫ですか」と声をかけ、静かな落ち着いた環境で話を聞くことが大切です。話を聞くだけでも、相手は気持ちが軽くなり、リラックスするきっかけになります。そして「誰しも失敗はありますし、自分も〇〇のミスをしたことがありますよ」また「自分にできることがあれば協力します」と共感を示しつつ、思いやりをもって話しかけてみてはいかがでしょうか。
落ち込んでいた気持ちが軽くなれば、何が良くて何が悪かったのか、原因についても冷静に考えることができるでしょうし、課題が見つかったり、克服すべきことが分かってきたり、前向きに受け止めて次に生かせるようにつながっていくと思います。「悔ゆる心ただちに悟りとなる時はやり損なひも結構である」との尊師さまのお歌があります。落ち込んでいる相手が勇気と感謝の心を持って、前を向いてもらえるようになれば素晴らしいことだと思います。
状況によっては、声のかけようがないときもあるかもしれませんが、相手に好意をもって接すること、相手を尊重して寄り添うこと。この心がけはいつも持っていたいと思います。(n)
「ついつい」ということですが、その「ついつい」は、結構怖いことかもしれません。悪口、つまり悪い言霊というものは、思っている以上に周りに悪影響を与えます。良い言霊を使えば良い霊界を生み出し、悪い言霊を使えば悪い霊界を生み出すのです。周りに人がいれば、その人たちに悪い霊界の影響を与えることとなり、たとえ周りに人がいなくとも、その影響は天地間にまで作用し、人々の悪(あ)しき思い、悪しき言霊が原因となって災害が起こるとまでいわれています。そして何より悪口を言っている本人にとって良くありません。「言の葉のれ汚(けが)しときは身に魂(たま)にたちまち曲(まが)の憑(かか)るものなる」と聖師さまは詠まれています。悪しき言霊を使うことによって、自分自身を悪い霊界に置いてしまっているのです。
また、「自分は表面的に同調しているだけで、そう思っているわけではない」と言われる方もいるかもしれませんが、これはこれで良い事ではありません。良い言葉にしろ、悪い言葉にしろ、思いと違う言葉を発するというのは、自らの心を偽っているということで、罪と穢(けが)れを生み出していると言えます。
しかしながら、「これは良くないことだから直したい」という気持ちを持つことは、とても大切なことです。その気持ちを始終忘れないようにして、常に自分の言動を反省し、改めていくことによって、悪い癖も直していくことができます。
出口日出麿尊師さまは「われわれはあくまでも、善言美詞をもって、混濁紛糾せるこの世の中を言向(ことむ)け和(やわ)さねばならぬ」「まず言霊から改めねばならぬ。悪い言霊の影響というものは、けだし大なるものである」とお示しになっています。悪口は、言っている本人にも気の毒なものですから、悪口を聞いたときには、いかに善言美詞の言霊に宣(の)り直させていただくことができるかを意識されてはいかがでしょうか。その意識と行動の積み重ねが、悪い癖を変える力になるかと思います。(K)
他人をねたむという心は、人によって程度の差はあれ、誰もが持っている自然な感情ではないかと思います。しかしその感情も極端に強くなってくると自己嫌悪に陥ったり、人間関係に支障を来したりすることになりかねません。まずねたみの心は、他人と自分を比較しなければ起こらない感情であることを知っておく必要があります。自分に不足しているものを他人が持っているときや、自分にもできると思いながら実際にはできていない場合など、他人をうらやましく思ったときに起こる感情といわれます。
相談者の方は、〝ねたんではいけない〟とのお示しに触れてもなかなか改善できないことに悩んでおられるようですが、このねたむという感情は、潜在意識あるいは本能のレベルで行われていますので、簡単に克服できないのは当然かと思います。まずは焦らず、そんな自分を素直に受け入れるところから始めましょう。自分を責めることは決して良い結果を生みません。
またねたみに似た感情にそねみ・ひがみ・うらやみなどがありますが、皆「心の癖」と捉えることができます。出口日出麿尊師さまのお示しに「(人の)一生は癖直しと心得るべし」とあります。時間をかけて改善していきましょう。
そもそも自分と他人の人生は、出発点も終着点も異なり、土俵が全く違うので、他人と自己を比べることは本来意味のないことです。大本のみ教えには、人は皆その人固有に天賦の使命が与えられており、その天命を遂行することが大切であり、他人の行状(使命)をうらやみねたむのは見当違いであるとも示されています。
これからは常に“人は人、自分は自分”と思うように心がけ、自分が本当にしたいことは何なのか、天賦の自己の特性を探し出し、自分の人生を高めていくことに努めましょう。大神さまに祈りつつ進んでいけば必ずやご守護を頂いて、理想の自分に近づいていけることと信じます。(k)
怖いもの見たさから心霊スポットに行くことはおすすめできません。そこにいわゆる「地縛霊」などがいると、霊障を受ける恐れがあるからです。霊に憑依されるなどした結果、病気になったり、交通事故に遭ったり、けがをしたりすることにつながるかもしれません。そのような霊はいわば、成仏できず、なんらかの理由でその場所にとどまり続けているのだと思われます。他人に不幸をもたらすことで、自分自身が成仏できていないということを知らせているようなものだと考えられます。
ただ、霊の存在を信じている人にはそのような説明は有効かもしれませんが、信じていない人にそのようなことは理解しがたいかと思います。
心霊スポットに行く時間帯はおそらく夜で、場所は人けのないひっそりとした寂しそうな雰囲気の所でしょう。人の手が行き届いていない場所は荒れ果てており、けがなどをする可能性が相対的に高いことも想像されます。霊の存在を信じていない人には、その場所の安全性の観点から行かないように説得してみるのも良いかもしれません。
もし、そのようなスポットに行ってしまった場合は、帰ってきた後、しっかりお祓(はら)いをすることが大切なのではないかと思います。お祓いの仕方は、切り火を使って自分でお祓いをする、もしくは修祓(しゅうばつ)を受けるといった方法があります。切り火がない場合は、清らかな塩を使うというのも一つの方法です。
そして後日、その心霊スポットのお祓いに行くのが良いと思います。行くのであれば日中の明るい時間帯が良いでしょう。自宅にご神前があるのなら、白衣・はかまを着て祓戸四柱(はらいどよはしら)の大神さまにご降神をお願いし、大麻(おおぬさ)を持って行ってお祓いするのが一番良いですが、人目が気になる場合は、普段着に切り火を持参していくのでも構わないと思います。お祓いをし、天津祝詞をあげることで霊が無事に昇天できるようお祈りしてはどうでしょうか。昇天できていない霊を救うのも大本信徒の立派な務めだと思います。(O)
私はこれが好き! と公言できるものがある人って輝いて見えますよね。そういった、夢中になれるものに巡り合えることは幸せで、うらやましくもあります。でも、一目ぼれのように好きと言えるものと出合っても、全ての人がそれを全うするわけではないですよ。
まだ、自分がそういったものに巡り合っていないということに焦りがあるのかもしれませんが、そんなに気にしなくてもよいと思います。自分から目的に向かって突き進むタイプの人もあれば、誰かに頼まれて始めたことが案外自分に合っているとか、人のサポートをすることの方が心地良い人もあります。
誰かが勧めてくれたもので、初めはそんなに好きではなくても、やってみたら意外と長く続けられている、ということもあるし、何が自分の人生で良い結果をもたらすかは分かりません。もっと言えば、好きなものだけが良い結果を出すわけでもありませんから。
もし今、やってみようと思うことがないならば、何でも手当たり次第試してみるとよいでしょう。どうしても自分で探せなければ、身近な人にお勧めを聞いてみるのも一つです。誰にも聞けないという方は、大本愛善学苑に行ってみてはどうでしょうか? 大本について知り、日本の伝統芸術に触れられるチャンスです。
私は梅松塾生の時、八雲琴に出合い、三十数年続けていますが、最初は好きではありませんでした。でも、今も続いています。積極的とは言いかねますが、何十年もかかって、お琴をしていて良かったなと今は思えます。あなたもコツコツと続けることができる、そして好きになれるものに出合えるといいですね。
最後に尊師さまのご著書『信仰覚書』より、お言葉を添えさせていただきます。
「フト思いついたことで、して差しつかえのないことなら、その時をすかさず為すべし。
機会というのは、かかることを指すなり」
どうぞ、あなたが好きなこと、得意なことと出合うきっかけをつかめますように、お祈りいたします。(O)
精神障害または精神疾患と呼ばれるものの中には、うつ病・双極性障害(躁うつ病)・統合失調症・社交不安障害(対人恐怖症)・パニック障害・摂食障害・境界性パーソナリティ障害・解離性同一症(多重人格)・PTSD(心的外傷後ストレス障害)など多数の種類があるといわれています。それぞれに原因・症状・軽重・対処法(治療法)が違い、専門外の人が普通に対応するのはかなり難しいと言わざるを得ません。
中でも日本で一番多いのがうつ病といわれ、うつ病の方に言ってはいけない言葉というのがあります。例えば、「頑張って」「元気出して」「早く治してね」「気の持ちようだよ」「誰でも落ち込むことはあるよ」「一体どうしちゃったの」「あなたより大変な人はいっぱいいるんだよ」などなど、つい言ってしまいがちな言葉ばかりです。精神疾患のある方と関わる場合は、その方の病名等、どんな疾患か前もって分かればその対処法を調べて接するのも一つの方法かと思います。
『信仰覚書』の中に「人の立場というものに同情してやらねばなりませぬ。つねに人に好意をもって接すべきであります」という一節があります。これは精神疾患のある方への対応としてもそのまま教訓となるお示しであると思います。
信仰者としてまずは大神さまのご守護を願い、関心、そして愛情を持って寄り添わせていただくという態度が、精神疾患のある方の安心につながっていく大切な心持ちであると思います。対話をする場合は、その人の思いをよく聞いて、相手の言葉を否定せず、またアドバイスもせずに「つらかったね」と声を掛けてあげるだけでも良いと思います。それがその方にとって「分かってもらえた」という気持ちの救いとなることでしょう。そうすれば少しずつ、そういった場合の対応の仕方も分かるようになるのではないかと思います。(k)
他人の意見にすぐ流されてしまうとのことですが、その後、もやもやとした気持ちが残るのでしょうか。自分の意見を持てないといっても、いろいろなケースがあるかと思います。
一つには、〝自分がどうしたいのか〟〝自分にとって何が大切なのか〟ということを自分自身が分かっていない故に、人の意見に流される場合です。
「人は誰(たれ)でも、つねに真(しん)の内省によってのみ、よく自己を知ることができる。自己を知って、はじめて確固なる信念を得(う)ることができる」(『信仰覚書』第六巻)というお示しがあります。
自身と向き合って己を知ることで初めて、流されない自分の意見を持つことができるようになるのかもしれません。
それともう一つは、物事に対して受動的で、自分のこととして捉えられていない場合です。
自分が責任を持って決断するという意識が強ければ、より真剣になり、自分の意見を持たざるを得なくなると思います。
何かあったときに人ごととしたり、人のせいにしたりするのではなく、自分のこととして捉え、考え、行動する習慣を付け、経験を重ねていくことによって、一種の信念ができてきます。
ただ、ここで気を付けなければいけないのは、同時に自らを省みて謙虚にならなければ、次第に慢心が生まれ、〝信念〟が〝我(が)〟になっていくということです。自分の意見を持ったとき、必ずそこに謙虚さと反省心が必要です。
さらに大切なことは、そこに神さまのお許しがあるかどうかということです。
幸おほき生業(なりわい)なりとも皇神(すめかみ)の御許(みゆるし)なくば吾はなすまじ
とお示しいただいていますように、何事をなすにも、まず神さまのみ心にかなっているかどうかを念頭に置くということが大切です。そしてそれがやがて〝信念〟を超えた〝信仰〟につながっていくのではと思います。(k)
世の中に自信を持っている人なんているのかな? と思い調べてみると、八割の人が自分に自信がないということです。もちろん、私もその一人。自信がないことが普通なので、あまり悩む必要はないと思います。
他人と比較して、自分が劣っていると思うことはあるでしょうが、どんなに立派でも他人を見下すような人は敬遠されますし、特別なことはできなくても親切で思いやりのある人は、やはり好感を持たれます。他人との比較は、優劣をつけるためにあるのではなく、自己を省みて自己を知るためにあるそうです。
でも、ちょっと待ってください。自分に自信がないということは、現状のままではいけないという前向きな気持ちの表れではないですか? そうです。あなたはすでに答えを持っているのです。あとは勇気を出してチャレンジするだけ。体験を積むことによって自信が生じます。時には失敗することもあるでしょうが、より多くつまずいた人は、より多くつまずかなくなるのです。何もしなかったら何も変わりません。もちろんチャレンジしたことが全て成功するとは限りませんが、壁を乗り越えようと努力したぶん、必ず成長しているはず。
大切なことは、何事も「ありがたい」と思ってさせていただくことです。例えば庭掃除を「面倒くさい」と思いながらするのと、「ありがたい」と思ってするのとでは、外見は同じでも、魂の世界から見ると前者は「罪」を重ねているのであり、後者は「天国」を築いているのです。何を行っているかではなく、どのような気持ちでそれを行っているかが大切だと思います。
私たちは天国天人になるために、この世で修行させられています。いわば全員が未完成の発展途上の身。真に自信の持てる人など、一人もいないのです。だから、どうぞ自信を持ってください!
偉いとも思わず 偉くないとも思わず
偉いとも偉くないとも思わずとも思わず
われは逝(ゆ)く水のごとくに(出口日出麿尊師)(H)
神さまのご存在に疑問を抱いてらっしゃるとのこと。そうですよね、九死に一生を得るような奇跡はそうそう起こりませんし、朝夕お参りしても「おはよう」とか、「今日もご苦労さまでした」と声を掛けてくださるわけでもなく、ましてお姿を拝見することもありませんから、誰もが一度は神さまの存在に疑念を持たれても不思議ではありません。私自身も直接神さまを見たことも、お声を聞いたこともありません。
出口王仁三郎聖師もお若いころ、貧苦続きの生活を憂い〝神も仏もあるものか〟と自暴自棄になられたことがあるそうですが、それから間もなくして神さまの神勅によりご自身の使命を自覚され、救世の神業に生涯をささげられました。
その聖師が神さまの存在を、端的かつ明確にお示しになっています。
「神は霊であるから、人の眼(まなこ)には見えぬが当然である。隠身(かくれみ)であるから人の眼には隠れて見ることができぬ。神の尊きは人の眼にて見ることがあたわぬがゆえである」(『道の栞』)
「神様がわからないという人に、一本の花を見せてやれ。これでも神様がわからないのですかと……。たれがこの美しく、妙なる色香をもった花を造るのであるか。同じ土地に捲(ま)いても種が違えば、千紫万紅色さまざまに咲き出(い)でて得もいわれぬ美しさを競うではないか。いったい誰がそうするのか。花を作る人はただ世話をするに過ぎないではないか」(『水鏡』)
末期的な病が治癒したとか、大事故に遭うも無傷だったといった奇跡的なご神徳だけにとららわれるのではなく、普段の生活の中で見過ごしがちな動植物をはじめとする自然の姿形、太陽に月・星といった天体の動きや時の移ろい、誰に教わったわけでもなく湧き起こる喜怒哀楽の心の動きなど、私たちの力の及ばない世界を神さまはすでに用意し見せてくださっています。それらをじっくり観察すると、きっと神さまのご存在が理解できるものと私は信じています。(N)
同世代のご友人でしょうか、周囲でご結婚が続いているとはおめでたい話ですね。一方自分はと考えると、焦りやプレッシャーを感じることもあると思います。しかし自分には自分の人生があり、他人と比較して、過度に焦ったり思い悩んだりする必要はないのではないでしょうか。ただ質問者さんは、いずれは結婚したいという意思をお持ちのようですね。
今、日本では結婚しない人が増えているそうです。離婚率は三十五パーセントともいわれますから、二の足を踏んでしまうのも無理はありません。そんな中、結婚したいと思われる理由は「子どもが欲しい」「将来が心配」「親を喜ばせたい」などさまざまあるでしょうが、結婚はゴールではありません。異なった環境で育った二人が一つ屋根の下で生活を共にしていくことを考えた場合、同じような価値観を持つ人同士の方がうまくいきやすいと思います。尊師さまのお示しに「この世の中で、何が幸福かといって、相合う魂が相寄りておることに越したことはない」とあるように、自分がどんな性格で、どういった価値観や目標を持っているかを理解することがまずは大切で、そうすることで相性を見極めることができます。
また理想のパートナー像を明確にすることは、相手を見つける際の指針となります。外見、年収、趣味に性格…。相手を構成する要素はたくさんありますが、何に重きを置くか、選ぶのはあなた自身。結婚してから泣きを見ないためにも、相手を知る努力、そして譲れるところは譲ることも時には必要でしょう。個人的には、尊敬できるところがあるかどうかは大きなポイントだと思います。身近で「すてきな夫婦だな」と思う方があれば、イメージしながら相手を探すのもいいですね。
そこまで思い描ければ、後は行動するのみ。婚活イベントに参加したり、マッチングアプリを利用したり、信頼できる人に紹介してもらうという方法も。積極的に出会いの場を広げてください。また両聖地、東京本部では「良縁祈願」も随時承っております。良い出会いがあることをお祈りしています。(n)
我も家で子どもに怒ることがよくあります。「片付けなさい」「勉強しなさい」「早く寝なさい!」など…。即座に言うことを聞いてくれるならいいですが、聞かないものならイライラが募る一方で、余計に細かいことが気になってきます。しかしある時ふと「自分は子どものことを言えるほど、ちゃんとできているのだろうか」「自分が子どもだった時は、どうだっただろう」と思い直しました。
細かいことですぐに怒ってしまうのは、もしかしたら相手に期待をし過ぎているせいかもしれません。人はそれぞれに「こうあるべき」という信念があり、相手にもそれを求めてしまいます。期待が高ければ高いほど、現実とのギャップが大きくなり、「どうして分からないのだ」とがっかりしてしまいます。
「自分のごとくに他人(ひと)があらざることを、もどかしがったところでしようがない。ただ、お互いに注意し合って、各自が、よりよき方へ進むよう気をつけるよりほかしかたがない」(『生きがいの探求』)
この出口日出麿尊師のお示しの通り、それぞれに注意し合って、最善を尽くすほかありません。自分の物差しで見て相手に期待をするから腹が立つのであって、初めから期待しなければ、腹が立つことも減ってくるのではないでしょうか。
「怒り」は二次感情といわれ、最初に感じる感情(一次感情)は悲しみや困惑、虚しさだそうです。次にその感情が怒りになって表されます。そのように怒りは知らず知らずのうちに自分が生み出しているものなので、努力次第でコントロールすることもできるそうです。
怒りを感じた時こそ、「自分だけが正しいのではない」と、まずは落ち着いて、相手の立場を慮(おもんばか)りたいものです。落ち着いて、省みることを繰り返すことで、怒りもだんだんと減っていき心穏やかに過ごせるものと思います。
生きがいとはどういうものでしょうか。その人にとっての喜びであったり、充実感を得るものであったり、時間を忘れて何かに没頭できるもの…といろいろ表現の仕方はあると思いますが、集約すれば「人生の張り合い」であり「何かのために生きている」と自覚できるものと言えます。例を挙げれば、信仰・仕事・家族・恋人・友人・趣味・稽古事・嗜好品等さまざまです。
生きがいがなければ生活に潤いや喜びがなく、気力も湧かないため、生きている意味が分からなくなります。それは当人にとっては大変つらく苦しいことです。
ではなぜ人は生きがいをなくしてしまうことがあるのでしょうか。
それは現在、天からそういう試練を与えられているのだと思います。生きがいがないのではなく、生きがいをまだ見いだせていないのです。
これから生きがいを見つけていく上で必要なことは、「自分を知ること」と「行動力」であると思います。自分を日頃からよく観察し、興味を抱いたことや感動したことなどがあれば、それを生かすために行動に移していくことが大切になってきます。
そしてもう一つ大切なことは、感謝する心だと思います。生きているのではなく、生かされていることを知り、感謝する心を培っていくことです。その心の中にこそ、真の生きがいが芽生えてくるのだと思います。
大本三代教主補出口日出麿尊師は『信仰覚書』の中で、
「人がこの世に生まれてきたのは、一面から言えば、神から分けていただいた素質ーいわば資本であるーをもっとも有意義に利用し、応用し、増殖することにあるのである」とお示しになっています。まさに自分の特性を見いだし、さらにそれを発展させて自己を向上させていく。それが身魂磨きになり、生きる目的となり、生きがいとなっていきます。
また、出口王仁三郎聖師の道歌に
「くよくよと物事くやむ暇あれば大小となく行ひて見よ」
とあります。祈りつつなせば、ご守護はきっと頂けます。(K)
厚生労働省の調査によると、令和二年の入職者数と離職者数を比べると、離職者が入職者を十六万八千七百人上回ったそうです。
離職理由のトップ3は〝経営者や上司の仕事の仕方が気に入らない〟〝労働時間・環境に不満〟
〝人間関係がうまくいかなかった〟でした。
質問者さんは「仕事が合っていない」とのことですが、この理由は新卒や若手社員に多いそうです。
実は私も、高校卒業後二年の間に二度離職しました。最初の職場は社長のパワハラ、次は先輩との人間関係が要因でした。
当然家族からは叱責を受けました。ハローワークに通っても相手にされず、しばらく自堕落な生活を送っていました。
そんな折、聖地参拝が契機となってご奉仕に上がることとなり、気が付けば今春で三十五年。
なぜ続いているのか? それは大本が好きだからです。神さま、教主さま、職員の皆さんや信者さん、何よりご奉仕が好きだからです。もちろん、時には悩んだりしんどい思いをしたりすることもありますが、信者さんや出会った方々から掛けられる感謝やねぎらいの言葉、そして笑顔に大きな喜びを感じたからです。
ご奉仕に上がる前の私は〝高い給料がいい〟〝○○が欲しい〟といったお金や物に執着していました。ところがご奉仕に上がってからは、信者さんたちの喜びこそが自分の喜びと気付いたのです。
「実社会にあって生きるということ、いろいろの人とつき合って、いろいろの目に遭い、課せられた仕事に専念して、自分のものとして深めてゆくことによって、世界というものを広く深く見聞さしていただくことが、ほんとうの修行であり、身魂磨きとなるものでしょう」(『寸葉集』巻二)
質問者さんに合っている仕事が何かは分かりませんが、期限を決めて自分のやりたいことに挑んだらいいと思います。
ただし、現界は霊界と違い時間に限りがあります。時間が過ぎるのは私たちが思う以上に早く、人生は長いようでそう長くはありません。
仕事を通じて出会う方々が喜ばれ、何よりご自身が活躍し納得できる。早くそんな仕事とご縁が頂けることを願います。(N)
十人寄れば十通りの考え方がある…。そのことはよく承知しているつもりでも、どうしても他人の振る舞いや言動、考え方が自分に合わないと、心のどこかで相手を否定し、自分を正当化しようとする、ということがしょっちゅうあります。そのたびに「自分はなんと心の狭い嫌な人間だろう」と反省しますが、また同じことの繰り返し。いつになったら自他を公平に見ることができ、「自分だけが正しいのではない」と思えるようになるのかと、情けなくなります。
あの世(霊界)では、それぞれの魂の状態で住む場所が厳格に分けられていて、同じ価値観の魂ばかりが集って過ごしているそうです。ところがこの世(現界) は大広間のようなもので、いろんな価値観を持った人たちが一緒に過ごしています。つまり、私と価値観の違うAさん、Bさんとは、あの世では二度と出会うことはありませんが、この世なればこそ、Aさん、Bさんの価値観に触れることができます。
「自己を知ることは他を知ることであり、他を知ることは自己を知ることである」と、出口日出麿尊師は示されています。それはこの世だからこそできることであり、あの世では難しいことのようです。
かつてイチローさんが現役メジャーリーガーだったころ、唯一、苦手としていたのがアスレチックスのハドソン投手でした。ところがイチローさんは、「ハドソン投手は、僕の技術を上げてくれる素晴らしい選手」と絶賛しています。苦手ということは、それだけ自分に足らないところがあり、その足らない部分を磨くことで、バッターとしての技術をさらに高めることができる。その好敵手こそ、ハドソン投手だというのです。もしイチローさんが、「ハドソン投手さえいなければ、 もっとヒットを量産し、打率が上がるのに」と思っていたとしたら、かの大記録は生まれていなかったかもしれません。
価値観の異なる相手と向き合うことは、とても難しいことですが、敵対する必要はなく、むしろ自己の足らないところを教えてくれる貴重な存在として、 好意を持って接することが大切なのではないでしょうか。(H)
就職、進学、引っ越しなど、どこに行ってもすてきだなと思う出会いがあれば、〝この人苦手かも〟と思ってしまう出会いもあります。毎日生活する中で、〝苦手だ〟と感じる方々とどのようにうまく付き合っていくのが良いのでしょう。
私も過去に人間関係で悩んでいた時期があります。
出会った当初は特に何も思わなかったのですが、日がたつにつれ、性格や態度まで受け入れられなくなってしまいました。距離を置きたくてもそれがかなわない状況だったので、ついに〝苦手〟を通り越して〝嫌いな人〟となり、口論が絶えない間柄になってしまいました。
しかしそんな相手とも、今では年に数回、お酒を飲む仲になりました。
いったい何がそのようにさせたのか? そこにはみ教えによるお導きがありました。
一つ目は、出口直日三代教主のお示し「自分だけが正しいのではない」です。
相手との関係に悩んでいたころは、〝自分が正しくて、あちらが間違っている〟と決めつけていたところがあり、その人の立場など考えもしませんでした。しかし、意見や考え方が異なった場合〝自分はこのように思うけど、相手の状況をおもんぱかれば、そういう考え方もあるのかもしれない〟と思わせていただくことで、意見が対立することもなくなっていきました。
二つ目は、出口王仁三郎聖師のお示し
「大本に来て修行していると、(中略)他人の醜さが目について、現界に活動していたときよりもはるかに汚く、悪くなったような気持ちがするというものがあるが、それはそのはずである。なぜなれば、神様が一生懸命めいめいの身魂を磨いて下さっているからである」(『玉鏡』)です。
その人との関係に限らず、現在でも他人の嫌な部分が目についてしまうことがあります。「人のふり見てわがふり直せ」ではありませんが、それら全てが自分の身魂を磨くための神さまからの〝おぼしめし〟と悟ることができれば、苦手意識も少しずつ和らいでいくのではないでしょうか。(Y)
出口日出麿尊師のご教示に「自分がつまらなく思えた時は、非常に進歩したときだ」とあります。私もどちらかというと消極的な性格で、失敗が続いた時は、どうしてもポジティブな気持ちになれませんし、落ち込むこともあります。また、うまくいっている人や社交的な人をうらやましく思うこともあります。しかしご教示にありますように、「自分がつまらなく思えた時」こそ、向上できるチャンスを頂いたと思うこともできます。また〝自分は自分、他人は他人〟と割り切ることで、他人ではなく自分に焦点が当たり、〝私がさせていただけることは何だろうか〟と前向きで積極的な気持ちが芽生えてきます。
ポジティブかどうかは、性格による部分もあるのかもしれませんが、自分自身の心の持ち方次第で変わっていくものと思います。小さなことでも行動すること、また努力することで、今まで負と捉えていた性格も、自分の持ち味として生かせるようになってくるのではないでしょうか。
出口王仁三郎聖師は『霊界物語』の中で、人の恩について次のように口述されています。
「人は持ちつ持たれつ相互に助け合うてゆくべきものである。人と名がつけば、たとえその心は鬼でも蛇でもかまわぬ。大切にしなくてはならぬ。それに人はすこしの感情や利害の打算上から、たがいに憎み嫉み争うとは、何たる矛盾であろう、不真面目であろう。人間は神様である。人間をおいて力になってくれる神様がどこにあるであろうか」
私は、この箇所を拝読するたびに猛省させられます。私たちの普段の生活は、神さまによって生かされ、人の恩によって支えられています。それなのに、そのことが当たり前になってくると不平不満ばかりを口にしてしまいます。自分がいかに恵まれているか気付いたときに初めて、反省と感謝の念が湧き起こり、周りへの悪口や不平不満も自然と減っていくのではないでしょうか。
物事の負の部分に焦点を当てるのではなく、良い面を見るよう意識すると、周りの環境や人の見え方も変わっていきます。たとえどんな小さなことであっても、自分の心を見つめ直すことで取り巻く環境もより良くなっていくように思います。(h)
質問者のおっしゃることはよく分かります。違う宗教を急に信仰するのは簡単なことではありません。しかし、嫁ぎ先の家風になじむのも大切なことだと思います。そしてそれは家庭生活全般においても同じです。相手を思いやる気持ちがないと、どうしても不満につながっていくように思います。
〝大本を理解して〟と言っても初めはなかなか伝わりにくいもの。まずは自分から歩み寄るつもりで、婚家の宗教を理解しながら、できる範囲で大本の教えを実践することが大切です。そうすることで神さまを敬う気持ちや姿勢、大本のみ教えがご主人にも自然と伝わり、少しずつ大本への理解を深めてくれるのではないかと思います。
また、信仰のない場合も同様で、あなたの信仰的な態度を見て、相手が自ら大本信仰に入るケースもあります。
今までは神さまを信仰していたので、仏壇などで手を合わせることに違和感がある人もいるかもしれません。そんな時は万教同根のみ教えをいま一度心に留め、“命ある全てのものの救いのために仏さまとしてみ姿を現してくださった、瑞の御霊の大神さまの前にお願い申し上げます”と、お祈りさせていただくとよいでしょう。
瑞の御霊の大神さまは仏さまとなり、あるいはイエス・キリストなどの姿となって今日まで人類の救済のためにご守護くださっています。その瑞の御霊の大神さまに、真剣に祈ることが大切です。
また、時には相手の言動に不満を抱いてしまうこともあります。そうすると相手だけでなく、他の家族にも悪い影響を与えることにつながっていくでしょう。それが大きくなれば、家の中にはギスギスした重たい空気が流れてしまいます。それは、天国とは反対の世界です。
相手に対しては無理強いすることなく、思いやりの気持ちを持ちながら、天国的な信仰家庭を目指してほしいと思います。(n)

つらい時、苦しい時に私が思い出すのが、出口日出麿尊師さまの次の詩(一部抜粋)です。
「淋しいでしょう 辛(つら)いでしょう
しかし辛棒してください
もう少しです
明けぬ闇はなく
尽きぬ冬はありません
歯を食いしばってでも
土にかじりついてでも
どうなりこうなりこの峠を越えてください
〝ああだめだ〟などとはけっして言わぬことです
東でゆきづまったら西へまわりなさい
南がふさがったら北へお逃げなさい
東西南北みなだめでしたら
しばらくそこで臥(ね)ていてください
天地は毎日かわる
晴れくもり寒くあたたかく
日が出たり月が出たり
闇になったり朝がきたり
ゆきづまったままの状態が
永久につづくかのように思いなさるな
淋しいときは祈りなさい
辛いときはお願いなさい
神よりほかに真の杖も柱もありません
あなたもお祈りなさい
私も祈ります」
長期間にわたり、つらい状態が続くことがあります。場合によっては何年もの長きにわたることもあるかもしれません。
私たちは人間です。「ああ、ダメだ」と言ってしまうこともあるでしょう。なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのだろうと思うようなときには、正直、神さまにお祈りするのも嫌になります。そういうものだと思います。
でも、いつか必ず、闇は明け、終わりが来ます。終わりがないものは、この世に存在しません。問題を解決しようにも、自分のできることが何もなければ、そのままの状態にするしかありません。何かしらの方法で気晴らし、例えば趣味などに打ち込めると、一時とはいえ、悩みを忘れることができるでしょう。
またある意味では、悩みをきっかけに、それまでの自分を見つめ直すことができます。そして解決した時、こう思うはずです。これも自分を成長させる神さまからの試練だったに違いない、と。
悩み・苦しみがあるからこそ、人間は成長できます。課題をクリアし、人生の次のステップへ進んでいかれることを願っています。(O)