心の処方箋
人生お悩み相談
人生を生きる中で、浮かんでくる悩み、その悩みを一人で抱えずに誰かに相談してみませんか?
ここでは、そんなお悩みに大本の宣伝使がお答えします。
神さまのご存在に疑問を抱いてらっしゃるとのこと。そうですよね、九死に一生を得るような奇跡はそうそう起こりませんし、朝夕お参りしても「おはよう」とか、「今日もご苦労さまでした」と声を掛けてくださるわけでもなく、ましてお姿を拝見することもありませんから、誰もが一度は神さまの存在に疑念を持たれても不思議ではありません。私自身も直接神さまを見たことも、お声を聞いたこともありません。
出口王仁三郎聖師もお若いころ、貧苦続きの生活を憂い〝神も仏もあるものか〟と自暴自棄になられたことがあるそうですが、それから間もなくして神さまの神勅によりご自身の使命を自覚され、救世の神業に生涯をささげられました。
その聖師が神さまの存在を、端的かつ明確にお示しになっています。
「神は霊であるから、人の眼(まなこ)には見えぬが当然である。隠身(かくれみ)であるから人の眼には隠れて見ることができぬ。神の尊きは人の眼にて見ることがあたわぬがゆえである」(『道の栞』)
「神様がわからないという人に、一本の花を見せてやれ。これでも神様がわからないのですかと……。たれがこの美しく、妙なる色香をもった花を造るのであるか。同じ土地に捲(ま)いても種が違えば、千紫万紅色さまざまに咲き出(い)でて得もいわれぬ美しさを競うではないか。いったい誰がそうするのか。花を作る人はただ世話をするに過ぎないではないか」(『水鏡』)
末期的な病が治癒したとか、大事故に遭うも無傷だったといった奇跡的なご神徳だけにとららわれるのではなく、普段の生活の中で見過ごしがちな動植物をはじめとする自然の姿形、太陽に月・星といった天体の動きや時の移ろい、誰に教わったわけでもなく湧き起こる喜怒哀楽の心の動きなど、私たちの力の及ばない世界を神さまはすでに用意し見せてくださっています。それらをじっくり観察すると、きっと神さまのご存在が理解できるものと私は信じています。(N)
同世代のご友人でしょうか、周囲でご結婚が続いているとはおめでたい話ですね。一方自分はと考えると、焦りやプレッシャーを感じることもあると思います。しかし自分には自分の人生があり、他人と比較して、過度に焦ったり思い悩んだりする必要はないのではないでしょうか。ただ質問者さんは、いずれは結婚したいという意思をお持ちのようですね。
今、日本では結婚しない人が増えているそうです。離婚率は三十五パーセントともいわれますから、二の足を踏んでしまうのも無理はありません。そんな中、結婚したいと思われる理由は「子どもが欲しい」「将来が心配」「親を喜ばせたい」などさまざまあるでしょうが、結婚はゴールではありません。異なった環境で育った二人が一つ屋根の下で生活を共にしていくことを考えた場合、同じような価値観を持つ人同士の方がうまくいきやすいと思います。尊師さまのお示しに「この世の中で、何が幸福かといって、相合う魂が相寄りておることに越したことはない」とあるように、自分がどんな性格で、どういった価値観や目標を持っているかを理解することがまずは大切で、そうすることで相性を見極めることができます。
また理想のパートナー像を明確にすることは、相手を見つける際の指針となります。外見、年収、趣味に性格…。相手を構成する要素はたくさんありますが、何に重きを置くか、選ぶのはあなた自身。結婚してから泣きを見ないためにも、相手を知る努力、そして譲れるところは譲ることも時には必要でしょう。個人的には、尊敬できるところがあるかどうかは大きなポイントだと思います。身近で「すてきな夫婦だな」と思う方があれば、イメージしながら相手を探すのもいいですね。
そこまで思い描ければ、後は行動するのみ。婚活イベントに参加したり、マッチングアプリを利用したり、信頼できる人に紹介してもらうという方法も。積極的に出会いの場を広げてください。また両聖地、東京本部では「良縁祈願」も随時承っております。良い出会いがあることをお祈りしています。(n)
我も家で子どもに怒ることがよくあります。「片付けなさい」「勉強しなさい」「早く寝なさい!」など…。即座に言うことを聞いてくれるならいいですが、聞かないものならイライラが募る一方で、余計に細かいことが気になってきます。しかしある時ふと「自分は子どものことを言えるほど、ちゃんとできているのだろうか」「自分が子どもだった時は、どうだっただろう」と思い直しました。
細かいことですぐに怒ってしまうのは、もしかしたら相手に期待をし過ぎているせいかもしれません。人はそれぞれに「こうあるべき」という信念があり、相手にもそれを求めてしまいます。期待が高ければ高いほど、現実とのギャップが大きくなり、「どうして分からないのだ」とがっかりしてしまいます。
「自分のごとくに他人(ひと)があらざることを、もどかしがったところでしようがない。ただ、お互いに注意し合って、各自が、よりよき方へ進むよう気をつけるよりほかしかたがない」(『生きがいの探求』)
この出口日出麿尊師のお示しの通り、それぞれに注意し合って、最善を尽くすほかありません。自分の物差しで見て相手に期待をするから腹が立つのであって、初めから期待しなければ、腹が立つことも減ってくるのではないでしょうか。
「怒り」は二次感情といわれ、最初に感じる感情(一次感情)は悲しみや困惑、虚しさだそうです。次にその感情が怒りになって表されます。そのように怒りは知らず知らずのうちに自分が生み出しているものなので、努力次第でコントロールすることもできるそうです。
怒りを感じた時こそ、「自分だけが正しいのではない」と、まずは落ち着いて、相手の立場を慮(おもんばか)りたいものです。落ち着いて、省みることを繰り返すことで、怒りもだんだんと減っていき心穏やかに過ごせるものと思います。
生きがいとはどういうものでしょうか。その人にとっての喜びであったり、充実感を得るものであったり、時間を忘れて何かに没頭できるもの…といろいろ表現の仕方はあると思いますが、集約すれば「人生の張り合い」であり「何かのために生きている」と自覚できるものと言えます。例を挙げれば、信仰・仕事・家族・恋人・友人・趣味・稽古事・嗜好品等さまざまです。
生きがいがなければ生活に潤いや喜びがなく、気力も湧かないため、生きている意味が分からなくなります。それは当人にとっては大変つらく苦しいことです。
ではなぜ人は生きがいをなくしてしまうことがあるのでしょうか。
それは現在、天からそういう試練を与えられているのだと思います。生きがいがないのではなく、生きがいをまだ見いだせていないのです。
これから生きがいを見つけていく上で必要なことは、「自分を知ること」と「行動力」であると思います。自分を日頃からよく観察し、興味を抱いたことや感動したことなどがあれば、それを生かすために行動に移していくことが大切になってきます。
そしてもう一つ大切なことは、感謝する心だと思います。生きているのではなく、生かされていることを知り、感謝する心を培っていくことです。その心の中にこそ、真の生きがいが芽生えてくるのだと思います。
大本三代教主補出口日出麿尊師は『信仰覚書』の中で、
「人がこの世に生まれてきたのは、一面から言えば、神から分けていただいた素質ーいわば資本であるーをもっとも有意義に利用し、応用し、増殖することにあるのである」とお示しになっています。まさに自分の特性を見いだし、さらにそれを発展させて自己を向上させていく。それが身魂磨きになり、生きる目的となり、生きがいとなっていきます。
また、出口王仁三郎聖師の道歌に
「くよくよと物事くやむ暇あれば大小となく行ひて見よ」
とあります。祈りつつなせば、ご守護はきっと頂けます。(K)
厚生労働省の調査によると、令和二年の入職者数と離職者数を比べると、離職者が入職者を十六万八千七百人上回ったそうです。
離職理由のトップ3は〝経営者や上司の仕事の仕方が気に入らない〟〝労働時間・環境に不満〟
〝人間関係がうまくいかなかった〟でした。
質問者さんは「仕事が合っていない」とのことですが、この理由は新卒や若手社員に多いそうです。
実は私も、高校卒業後二年の間に二度離職しました。最初の職場は社長のパワハラ、次は先輩との人間関係が要因でした。
当然家族からは叱責を受けました。ハローワークに通っても相手にされず、しばらく自堕落な生活を送っていました。
そんな折、聖地参拝が契機となってご奉仕に上がることとなり、気が付けば今春で三十五年。
なぜ続いているのか? それは大本が好きだからです。神さま、教主さま、職員の皆さんや信者さん、何よりご奉仕が好きだからです。もちろん、時には悩んだりしんどい思いをしたりすることもありますが、信者さんや出会った方々から掛けられる感謝やねぎらいの言葉、そして笑顔に大きな喜びを感じたからです。
ご奉仕に上がる前の私は〝高い給料がいい〟〝○○が欲しい〟といったお金や物に執着していました。ところがご奉仕に上がってからは、信者さんたちの喜びこそが自分の喜びと気付いたのです。
「実社会にあって生きるということ、いろいろの人とつき合って、いろいろの目に遭い、課せられた仕事に専念して、自分のものとして深めてゆくことによって、世界というものを広く深く見聞さしていただくことが、ほんとうの修行であり、身魂磨きとなるものでしょう」(『寸葉集』巻二)
質問者さんに合っている仕事が何かは分かりませんが、期限を決めて自分のやりたいことに挑んだらいいと思います。
ただし、現界は霊界と違い時間に限りがあります。時間が過ぎるのは私たちが思う以上に早く、人生は長いようでそう長くはありません。
仕事を通じて出会う方々が喜ばれ、何よりご自身が活躍し納得できる。早くそんな仕事とご縁が頂けることを願います。(N)
十人寄れば十通りの考え方がある…。そのことはよく承知しているつもりでも、どうしても他人の振る舞いや言動、考え方が自分に合わないと、心のどこかで相手を否定し、自分を正当化しようとする、ということがしょっちゅうあります。そのたびに「自分はなんと心の狭い嫌な人間だろう」と反省しますが、また同じことの繰り返し。いつになったら自他を公平に見ることができ、「自分だけが正しいのではない」と思えるようになるのかと、情けなくなります。
あの世(霊界)では、それぞれの魂の状態で住む場所が厳格に分けられていて、同じ価値観の魂ばかりが集って過ごしているそうです。ところがこの世(現界) は大広間のようなもので、いろんな価値観を持った人たちが一緒に過ごしています。つまり、私と価値観の違うAさん、Bさんとは、あの世では二度と出会うことはありませんが、この世なればこそ、Aさん、Bさんの価値観に触れることができます。
「自己を知ることは他を知ることであり、他を知ることは自己を知ることである」と、出口日出麿尊師は示されています。それはこの世だからこそできることであり、あの世では難しいことのようです。
かつてイチローさんが現役メジャーリーガーだったころ、唯一、苦手としていたのがアスレチックスのハドソン投手でした。ところがイチローさんは、「ハドソン投手は、僕の技術を上げてくれる素晴らしい選手」と絶賛しています。苦手ということは、それだけ自分に足らないところがあり、その足らない部分を磨くことで、バッターとしての技術をさらに高めることができる。その好敵手こそ、ハドソン投手だというのです。もしイチローさんが、「ハドソン投手さえいなければ、 もっとヒットを量産し、打率が上がるのに」と思っていたとしたら、かの大記録は生まれていなかったかもしれません。
価値観の異なる相手と向き合うことは、とても難しいことですが、敵対する必要はなく、むしろ自己の足らないところを教えてくれる貴重な存在として、 好意を持って接することが大切なのではないでしょうか。(H)
就職、進学、引っ越しなど、どこに行ってもすてきだなと思う出会いがあれば、〝この人苦手かも〟と思ってしまう出会いもあります。毎日生活する中で、〝苦手だ〟と感じる方々とどのようにうまく付き合っていくのが良いのでしょう。
私も過去に人間関係で悩んでいた時期があります。
出会った当初は特に何も思わなかったのですが、日がたつにつれ、性格や態度まで受け入れられなくなってしまいました。距離を置きたくてもそれがかなわない状況だったので、ついに〝苦手〟を通り越して〝嫌いな人〟となり、口論が絶えない間柄になってしまいました。
しかしそんな相手とも、今では年に数回、お酒を飲む仲になりました。
いったい何がそのようにさせたのか? そこにはみ教えによるお導きがありました。
一つ目は、出口直日三代教主のお示し「自分だけが正しいのではない」です。
相手との関係に悩んでいたころは、〝自分が正しくて、あちらが間違っている〟と決めつけていたところがあり、その人の立場など考えもしませんでした。しかし、意見や考え方が異なった場合〝自分はこのように思うけど、相手の状況をおもんぱかれば、そういう考え方もあるのかもしれない〟と思わせていただくことで、意見が対立することもなくなっていきました。
二つ目は、出口王仁三郎聖師のお示し
「大本に来て修行していると、(中略)他人の醜さが目について、現界に活動していたときよりもはるかに汚く、悪くなったような気持ちがするというものがあるが、それはそのはずである。なぜなれば、神様が一生懸命めいめいの身魂を磨いて下さっているからである」(『玉鏡』)です。
その人との関係に限らず、現在でも他人の嫌な部分が目についてしまうことがあります。「人のふり見てわがふり直せ」ではありませんが、それら全てが自分の身魂を磨くための神さまからの〝おぼしめし〟と悟ることができれば、苦手意識も少しずつ和らいでいくのではないでしょうか。(Y)
出口日出麿尊師のご教示に「自分がつまらなく思えた時は、非常に進歩したときだ」とあります。私もどちらかというと消極的な性格で、失敗が続いた時は、どうしてもポジティブな気持ちになれませんし、落ち込むこともあります。また、うまくいっている人や社交的な人をうらやましく思うこともあります。しかしご教示にありますように、「自分がつまらなく思えた時」こそ、向上できるチャンスを頂いたと思うこともできます。また〝自分は自分、他人は他人〟と割り切ることで、他人ではなく自分に焦点が当たり、〝私がさせていただけることは何だろうか〟と前向きで積極的な気持ちが芽生えてきます。
ポジティブかどうかは、性格による部分もあるのかもしれませんが、自分自身の心の持ち方次第で変わっていくものと思います。小さなことでも行動すること、また努力することで、今まで負と捉えていた性格も、自分の持ち味として生かせるようになってくるのではないでしょうか。
出口王仁三郎聖師は『霊界物語』の中で、人の恩について次のように口述されています。
「人は持ちつ持たれつ相互に助け合うてゆくべきものである。人と名がつけば、たとえその心は鬼でも蛇でもかまわぬ。大切にしなくてはならぬ。それに人はすこしの感情や利害の打算上から、たがいに憎み嫉み争うとは、何たる矛盾であろう、不真面目であろう。人間は神様である。人間をおいて力になってくれる神様がどこにあるであろうか」
私は、この箇所を拝読するたびに猛省させられます。私たちの普段の生活は、神さまによって生かされ、人の恩によって支えられています。それなのに、そのことが当たり前になってくると不平不満ばかりを口にしてしまいます。自分がいかに恵まれているか気付いたときに初めて、反省と感謝の念が湧き起こり、周りへの悪口や不平不満も自然と減っていくのではないでしょうか。
物事の負の部分に焦点を当てるのではなく、良い面を見るよう意識すると、周りの環境や人の見え方も変わっていきます。たとえどんな小さなことであっても、自分の心を見つめ直すことで取り巻く環境もより良くなっていくように思います。(h)
質問者のおっしゃることはよく分かります。違う宗教を急に信仰するのは簡単なことではありません。しかし、嫁ぎ先の家風になじむのも大切なことだと思います。そしてそれは家庭生活全般においても同じです。相手を思いやる気持ちがないと、どうしても不満につながっていくように思います。
〝大本を理解して〟と言っても初めはなかなか伝わりにくいもの。まずは自分から歩み寄るつもりで、婚家の宗教を理解しながら、できる範囲で大本の教えを実践することが大切です。そうすることで神さまを敬う気持ちや姿勢、大本のみ教えがご主人にも自然と伝わり、少しずつ大本への理解を深めてくれるのではないかと思います。
また、信仰のない場合も同様で、あなたの信仰的な態度を見て、相手が自ら大本信仰に入るケースもあります。
今までは神さまを信仰していたので、仏壇などで手を合わせることに違和感がある人もいるかもしれません。そんな時は万教同根のみ教えをいま一度心に留め、“命ある全てのものの救いのために仏さまとしてみ姿を現してくださった、瑞の御霊の大神さまの前にお願い申し上げます”と、お祈りさせていただくとよいでしょう。
瑞の御霊の大神さまは仏さまとなり、あるいはイエス・キリストなどの姿となって今日まで人類の救済のためにご守護くださっています。その瑞の御霊の大神さまに、真剣に祈ることが大切です。
また、時には相手の言動に不満を抱いてしまうこともあります。そうすると相手だけでなく、他の家族にも悪い影響を与えることにつながっていくでしょう。それが大きくなれば、家の中にはギスギスした重たい空気が流れてしまいます。それは、天国とは反対の世界です。
相手に対しては無理強いすることなく、思いやりの気持ちを持ちながら、天国的な信仰家庭を目指してほしいと思います。(n)
世の中に自信を持っている人なんているのかな? と思い調べてみると、八割の人が自分に自信がないということです。もちろん、私もその一人。自信がないことが普通なので、あまり悩む必要はないと思います。
他人と比較して、自分が劣っていると思うことはあるでしょうが、どんなに立派でも他人を見下すような人は敬遠されますし、特別なことはできなくても親切で思いやりのある人は、やはり好感を持たれます。他人との比較は、優劣をつけるためにあるのではなく、自己を省みて自己を知るためにあるそうです。
でも、ちょっと待ってください。自分に自信がないということは、現状のままではいけないという前向きな気持ちの表れではないですか? そうです。あなたはすでに答えを持っているのです。あとは勇気を出してチャレンジするだけ。体験を積むことによって自信が生じます。時には失敗することもあるでしょうが、より多くつまずいた人は、より多くつまずかなくなるのです。何もしなかったら何も変わりません。もちろんチャレンジしたことが全て成功するとは限りませんが、壁を乗り越えようと努力したぶん、必ず成長しているはず。
大切なことは、何事も「ありがたい」と思ってさせていただくことです。例えば庭掃除を「面倒くさい」と思いながらするのと、「ありがたい」と思ってするのとでは、外見は同じでも、魂の世界から見ると前者は「罪」を重ねているのであり、後者は「天国」を築いているのです。何を行っているかではなく、どのような気持ちでそれを行っているかが大切だと思います。
私たちは天国天人になるために、この世で修行させられています。いわば全員が未完成の発展途上の身。真に自信の持てる人など、一人もいないのです。だから、どうぞ自信を持ってください!
偉いとも思わず 偉くないとも思わず
偉いとも偉くないとも思わずとも思わず
われは逝(ゆ)く水のごとくに(出口日出麿尊師)(H)