祭典諸行事では取材のため、参拝・参加者の写真およびビデオ撮影を行い、機関誌や大本のHP、YouTubeの「大本公式チャンネル」などにアップすることがあります。詳しくはこちら

二代教主 出口すみこ

出口なお開祖さまの8人目のみ子として出生し、大本の草創期より開祖さま・出口王仁三郎聖師さまを支え、今日の教団の基礎をお作りになった二代教主さま。おおらかなお人柄は「大地の母」と仰がれました。〝お土のご恩〟を説かれ、〝一つの世界〟を目指す世界連邦運動をご推進。本年は昭和27年3月31日にご昇天になってより70年の節目を迎えます。

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奉公(『おさながたり』から)

『おさながたり』は、大本二代教主である著者が口伝された幼き日の思い出、大本創生期の開祖のこと、奉公時代の厳しいご修業、開教当時のご苦労など、深い感動と涙をもよおさずにはいられない一冊です。また、大本の活歴史でもあります。

 

 私は七歳の時に福知山へ奉公に行くことになりました。福知山へは綾部から三里半もあるので、母さんは私を福知山までつれて行けば一日の仕事を休まねばならぬので、私の行先を手紙に代書してもらわれて、その手紙を私の手首にくくりつけて下さいました。
「これを持ってな、おすみや、八幡さまの馬場を通ってずっと行くと、福知山へ着くからな。おすみや、かわいそうなけど元気で行っておくれよ。この手紙をな、人に出会うたんびに見せるんじゃよ」と言われました。私は「ハイ」と言うて、一人で福知をさして出掛けました。鳥ガ坪あたりまで行くと、女の人に会いましたので「おばさん、これ読んでおくれいな」と母が手首にくくって下された手紙を見せると、それを読んで、「ああ分かった。わしも福知へ行くからな、一緒に行こうかいな。まあこんな小さい児を、やる親もやる親じゃが、行く子も行く子じゃ」と言いながら、しばらく私の顔をのぞき込むように見ていました。
 この女の人は、おたつさんと言うてそのころ綾部でまからず屋という小間物店をひらいて後には綾部一という繁昌した店の奥さんでありました。その時背中に荷を負うて仕入れに行かれるのでしたので、福知の入口まで一緒に連れて行ってくれました。福知の町へ入ると、手紙を見せながら伯父さんのところへやっと行きつきました。それから伯父さんの世話で、どこかは忘れましたが子守に行きました。この時はまだ間に合わなかったんですやろう、すぐ帰って来たように思います。
 おなじ七つの年に、もう一度福知へ奉公へ行きました。新町の政さんという米屋でした。そこで夏中を子守り奉公をして帰りにお仕着せの単衣物一枚もらって帰りましたことを、それが初めてのこととて嬉しかったので、よく覚えております。昔は食べさしてもらえれば給金というものはなく、盆と正月に前掛けか着物をもらうことがあるくらいでした。ある時、そこの奥さんが芝居見に行かれるのに連れられました。その頃私はまだ芝居の面白さが分かりませんので、眠りこんでしまって、フッと眼が覚めて気が付いてみると、真暗がりの芝居小屋の中に、私は一人で寝ていました。それからびっくりして、あっちへひょろひょろ、こっちへひょろひょろと、どうしたらここから出られるかと手探りで探し回ってどうなりこうなり外へ出ることが出来ました。そうして夜更けの町を歩いて米屋の戸をたたきました。そのとき奥さんが戸をあけて「眼が覚めたんかい。眠っていたからおいて帰ったのや」と言われたが、その言葉のどこかの冷たいものがどきんときて、私は奉公勤めのきびしさを思ったことを憶えています。昔の人は気の強いことをしたものです。米屋のお内儀(かみ)さんは優しさのない人でしたが、この人にはあまり良いことはおきなかったようです。
 私が子守りをさせられていた子には、手の指のところに家鴨の水かきのようなものがありました。私がおんぶして外に出て行くと、町の人が寄って来てしつっこく「おすみさん、その子の手を見せてくれい」と繃帯のしてあるのを解いて見るのでした。米屋のお内儀さんは、その後、米屋を離縁になり、和知へ二度目の嫁入りに行きました。後になって私が先生(出口王仁三郎聖師)と結婚して中村竹蔵さんの所にいた頃、神様にお参りに来たことがありまして、その時「あんたは小さい時、福知へ守りに行かれたことはありませんか」と問われたので「はい」と言って、よく見ますと福知の米屋のお内儀さんでした。その時、「こんど生まれる子に、変な毛が一杯生えてるような気がして、恐ろしくなってお参りに来ました」と言っていました。
 私が福知で奉公していますある日のことでした。母さんが、私がどうしているだろうと心配されて、わざわざ出掛けてこられました。私は末子(おとんぼ)で可愛かったからでしょう。私はその時は本当に嬉しくて、私はもう母さんをはなすまいとして、赤ちゃんを負ったまま母につきまとい、母さんが知らぬまに逃げられてはいかぬと思うて、母の着物のはしをつかんでいました。うんこしたい時も出来るだけ便所に行くのも我慢して母さんについていました。
 私は母さんにさとされ、母と別れて、寂しいのを我慢してやっと福知に思いとどまりました。母さんはその頃から、すでにやさしいもの言いの中にもお力を持っておられました。
 私はそのうちしばらくして家にかえりました。米屋の忙しいときがすみますと私は帰らねばなりませんでした。しかしこれからがいよいよわたしの苦労のはじまりであります。
 せせらぎの音なつかしも五十(いそ)とせ前母に抱(いだ)かれいねたる夜半(よは)の

花明山夜話

花明山夜話は昭和二十五年以降「木の花」誌に掲載された二代教主さまをお囲みしての座談会で、テーマを特に設定せず、自由に語られているものです。

出席者:出口すみこ(二代教主) 出口直日(三代教主) 出口乕雄 日向宗朝 山本荻江

乕雄 お母さん(二代教主)、お帰りなさい。ご苦労さまでございました。
すみこ ながいこと会わなんだな。
乕雄 はい、木の花座の九州公演に一座をつれてゆきまして、それから金沢の歌祭(昭和25年5月5日)にでかけ、七日夕帰郷しました。ちょうどお母さんが松江へおたちになりました後でして。
すみこ 金沢の歌祭はどうやった。
乕雄 立派な祭典でした。加賀宝生の能舞台でやりましたが、実に綺麗な舞台芸術になりまして、外部の人々も多数参観に来ていましたが、みんなあの弓太鼓、八雲の音楽と夷振調の朗詠に恍惚としてしまったらしいです。
すみこ 新聞にもでたそうやな。
乕雄 それは嵯峨さんの商売ですからね。しかしそういう意味でなしに、金沢市在住の歌人で江戸さい子という人が感激して、北国新聞に投稿していました。あちらの知識階級の人々も相当来ていましたが真実に心をうたれたということです。北陸最大の新聞社の社長である嵯峨さんが斎主になり、真剣になってああいうことをしていることや、献詠されている歌が、どれにも祈りがこもっている、それが社会を美しくしようとか、世界平和とかいうことについて、また聖師をしのぶ真実な人間性が詠われているので、これが戦前、邪教として取り扱われていたこと等について、今さらのように思いを改めたということを言っていました。
すみこ 歌祭、あれは、どえらい神業やでな。
乕雄 そういうお母さんのお歌もありまして、こんどの金沢の博覧会といい、歌祭といい、ご神意の発動によるものだと確信さしていただきました。
すみこ わしもな、こんど金沢で博覧会をみてまわって、わしの使命に絶対の自信を持つことができ、うれしかった。わしのこの喜びはだれにも分かってもらえんが、わしは自分の因縁をやりぬく、びくともせん信念をいただいたのや。わしはこれまで神様から、どえらいことばかり聞かされとるやろう。しかしそれがこれから本当にやりとげられるその時節がきたことに、それに対する自分の力に自信がついたのや、こう言うても、みなにわしの気持ちは分からんやろうけど。
乕雄 わたしも、こんど生きたご守護を感じさしていただき、楽天社もこれからは格段の差で開けてくることを思いました。私の友人たちも非常におかげをいただいておりまして、しっかりご用さしていただかねば申し訳ないということを申していました。
すみこ わしは今日聞いたのやが、お前な、こんど芝居で殿様になって、えらい上手やそうやな。
乕雄 聖師さまも自分で俳優にもなって、神劇を作られましたので、わたしもそれに習ってやらしてもらいました。ところが、みずほ会館の落成式にやりましたとき、梅野が見にきまして、ぷんぷん怒りましてね。もうすこしええ殿様かと思うたら、顔がエノケン(榎本健一、舞台・映画の喜劇俳優)みたいになって、恥ずかしいて見とれなんだ。もうこれからはやめてくれと、今日も半日ぼやかれてきました。
すみこ (笑い声)そうか、エノケンてなんやいな。
乕雄 顔の作りは田武さんがしてくれたので、わしを怒っても知らんがなぁと言うても聞かんのですよ。しかし九州ではお母さん、私の殿様が一番よくできていると、どこでも評判でした。
すみこ お前はどこの殿さんや。
(以下※印歌舞伎口調で)
乕雄 ※九州は熊本八代の殿さんですたい。
すみこ ※その殿さんは何代つづいたのや。
乕雄 ※あんまり長うて分かりまっせん。
すみこ ハハ……
乕雄 ハハ……
すみこ わしはこんど煙草をやめたのでな。
乕雄 それでは私一人すうていては罪ですね。
すみこ 罪なことあらへん、香りだけでもええ気持ちや。
乕雄 あれだけお好きなお母さんの煙草が、ようやめられましたですね。
すみこ やめるからやまるのや。こんなことやめるようにせなやまらへん。
乕雄 どうして、また煙草をやめられたのですか。
すみこ わしとしては、いま煙草をすうているわけにはゆかんのでな。(後略)
花明山夜話(三)から(昭和25年5月)