出口王仁三郎聖師による楽茶盌は、第二次大本事件をはさんで前後の二期に分けられている。
前期楽焼(第二次大本事件前) | |
製作期間 | 約10年間 |
始 | 大正15年(1926)年2月 御年54歳 |
終 | 昭和10年(1935)年ごろ 御年63歳 |
製作数 | 絵付けも含めて約5〜6万点をご製作 |
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前期楽焼
<耀盌の前身>
大正15(1926)年〜昭和10(1935)年
平和の世来らん時の用意にと 極楽の茶盌作りてぞ待つ
火と水と土を固めて人間の 平和の為と茶盌作る
聖師のお歌 大正15(1926)年4月30日詠
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初の楽焼製作と「斎入」の出現
聖師の陶器の絵付けは、大正14(1925)年の暮れ、京都大丸呉服店の楽焼場で試みられたのが最初である。聖師はよほどお気にめしたようで、明けて翌年の1月24日にも同店に再び来場。楽焼の技に興じられるとともに、各種の楽焼の下絵として、寿老人の画、菓子皿と手当たりしだいに描かれ、窯へ5分ばかり入れて焼き上がりをご覧になるといった早業を披露され、周囲の者を驚かせている。
天恩郷(京都府亀岡市)にご帰苑後、早速技師を招き、当時は珍しかった電気窯を設置、節分明けから楽焼づくりに没頭された。出始めの電気窯は温度が安定しなかったため焼成に苦労されたようだが、最初の窯出しの2月8日に、早くも「斎入」が次々に誕生している。
ところで、「斎入」とは何か。まず陶芸の製法にはない名前である。記録によると、下絵と釉薬と焼く温度がある一定の割合でそれぞれ一致したとき、奇跡的確率で《偶然に》できるものとされ、当時名古屋にその大家がいたようだが今日定かではない。茶盌の表面に泡のようなブツブツが出て、お茶をたてると泡だちが良く、茶道関係者には羨望のまとだったという。この品が当時(昭和初期)、時価1万円で取り引きされたというから、いかに貴重なものだったかがうかがわれる。
下は、聖師による楽焼の始まりを報じた貴重な記事。
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《斎入》茶盌
この茶盌は「水泡(みなわ)」と銘がつけられ、《斎入》の作品といわれるもの。出口すみこ二代教から長女・直日三代教主に渡り、戦時中の難を逃れて現存する数少ない《斎入》茶盌のひとつ。
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聖師が選ばれた「楽焼」
「やきものは土で作られる最も美しいものに違ひない。土を水でこね、火で焼き、浄化されたものがやきものである。聖なる土、聖なる水、聖なる火、この三つのものによって生み出されるやきものの中でも、最も土に近い、土臭いものが楽焼である。
土をはたき、土をこね、ロクロの力を借らずに、専ら手で拈って造る楽焼。彼(※聖師)がやきものの中でも、最も長く、最もよく土に親しみ得る楽焼を選んだのにも、理由があったと思う」
加藤義一郎氏(陶芸評論家)の手記より(『日本美術工芸』昭和24(1949)年12月号)
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前期の楽焼は昭和5(1930)年7月に新しい窯場として蓮月亭が完成。
昭和10(1935)年の第二次大本事件までつづき、絵付けの茶盌もあわせるとその数5〜6万点に及んだという
第二次大本事件で失われた楽焼
これらの前期楽焼は、第二次大本事件の折(昭和10(1935)年12月勃発)、両聖地はもとより全国の信徒宅を捜索した警察によって没収され、あるいは破却されてしまい、今日ではわずかしか残っていない。
下の写真は第二次大本事件の弾圧で破壊された高天閣(手前の瓦礫。場所は現在の朝陽舘辺り)。奥に見えるのは破却途中の月宮殿。《斎入》のお茶盌は「国魂」として月宮殿にも安置されていた。
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昭和11(1936)年5月末〜6月初めごろ