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歴代教主紹介

教祖昇天後、出口すみこ二代教主、出口直日(なおひ)三代教主・出口日出麿(ひでまる)三代教主補、出口聖子(きよこ)四代教主と歴史を重ね、現在は出口紅(くれない)五代教主のもと、大本の神業(しんぎょう)が進められている。

出口すみこ 二代教主(1883〜1952)

聖師の妻。〝お土のご恩〟を説き、〝一つの世界〟を目指す世界連邦運動を推進。大らかな人柄は「大地の母」と仰がれました。

≪出生と昇天≫
明治16年(1883)年2月、綾部で出生。昭和27年(1952)年、69歳で昇天。

≪幼少時代≫
開祖同様、幼少より貧しい生活を体験。他家での奉公生活などで少女時代を過ごす。

≪大本の要(かなめ)のご用≫
明治33年(1900)、王仁三郎と結婚。
大本の草創期から開祖、王仁三郎と共に、その中枢にあって要としての神業に仕える。

≪女の世継ぎ≫
明治43年(1910)旧9月10日の大本神諭に、
「綾部の大本は、末代(まつだい)変性男子(へんじょうなんし)の御霊(みたま)の出口直の霊系(ちすじ)でないと世が続いては行かんぞよ。肉体が女で御霊が国常立尊(くにとこたちのみこと)の御霊であるぞよ。代々続く女の御世継ぎ」と。
二代教主はこの神示のもと道統を継承し、みろくの世建設の役割を担う。

≪柔和な人柄≫
第二次大本弾圧事件で勾留される。約7年にわたる未決生活でも一日として暗い表情を人に見せた事なく、ただ「ありがたい、もったいない」と過ごす。
大本事件解決・大東亜戦争終結という、大本・日本にとり困難な時代にあって、「一つの世界」を目指し世界連邦運動に参加、協力。
国内で綾部市が真っ先に世界連邦平和都市を宣言。亀岡市がこれに次いで宣言した。

≪大地のご恩を説く≫
つねに「月日と土の恩」を諭し、戦後、日本の食糧欠乏期には、「愛善みずほ会」を創設。食糧増産を奨励する。

出口直日(なおひ) 三代教主(1902〜1990)

「脚下照顧」「言心行の一致」「信仰即生活即芸術」を唱導・実践し、開祖以来の大本の教風を確立。みろくの世の礎を築かれました。

≪出生と昇天≫
明治35年(1902)、王仁三郎と二代教主すみこの長女として出生。
平成2年(1990)、88歳で昇天。

≪大本事件への対応≫
王仁三郎、二代教主、夫・日出麿、その他教団幹部投獄の後、幼い子をかかえ、自ら農業にいそしみ、社会の悪罵と冷笑に耐えつつ、事件解決のため奔走。
弁護士交渉、弁護費用の調達、信徒の指導など、獄外にあるものの重荷を一身に背負い難局を突破した。

≪宗教即芸術即生活による信仰基礎の確立≫
昭和27年の教主就任後は、独善的・観念的におちいりやすい信仰生活者をいましめ、「脚下照顧」を旨とした教風をうちたてる。
幼少より日本伝統文化に精進。書道・茶道・能楽・短歌・八雲琴など、少しのたゆみもなく習練を続けて来た体験から、日本の伝統文化の世界的地位を説き、日本民族としての自覚を高め、自主性を養うことを主張。
信徒はもとより文化人を招き清談を交わすなど、“花鳥風月”を友とし身をもって日本の心を説いた。

≪著書≫
著書は『私の手帖』『聴雪記』『寸葉集』など。
信仰のあるべき姿や文明批評、自然や歴史についてなど、豊かな感性と豊潤な筆による随想記。
やさしい言葉で、人としての生き方をつづっている。歌集も多い。

出口日出麿(ひでまる) 尊師(1897〜1991)

三代教主の夫。第二次大本事件では獄中で過酷な体験をされ、以来、〝神仙の世界〟に身を置き、霊界、現界の霊的浄化救済に全身全霊を捧げられました。

≪出生と昇天≫
岡山県倉敷において、明治30年(1897)に出生。
平成3年(1991)12月、93歳で昇天。

≪神仙の世界へ≫
青年時代からすぐれた霊的感受性を持つ。
大正8年(1919)、大本入りし、昭和3年(1928)、三代教主と結婚。

第二次大本事件では4年間、獄中に囚われる。その間当局からの手厳しい拷問を受ける。この事件以来、教主を霊的に補佐し、万民の霊的救済に専念する。伝記に『神仙の人・出口日出麿』がある。

≪生きがいの探求≫
『信仰雑話』『信仰叢話』『信仰覚書〈全8巻〉』など著書多数。
信仰を求める初心者に最適な案内書であるばかりでなく、人生を真剣に生きようとする人々に、深い感化を与える。

特に『生きがいの探求』『生きがいの創造』『生きがいの確信』三部作は、若い人々に読まれ、好評である。
昭和59年(1984)、ロス・オリンピック体操競技で個人総合優勝の日体大・具志堅幸司選手はこの三部作の熱読者として有名。

出口聖子 (きよこ)四代教主(1935〜2001)

大本花明山植物園長を長く務めました。内面の充実を諭し、脳死臓器移植や遺伝子組み替え作物に反対するなど生命の尊さを訴えられました。

≪出生と昇天≫
昭和10年(1935)、三代教主直日と同教主補日出麿の三女として出生。
昭和57年5月教主継承者(教嗣)に、昭和63年1月三代教主代行となる。
三代教主の昇天により、平成2年(1990)9月23日、四代教主に就任。
平成13年(2001)4月29日、66歳で昇天。

≪信徒の指導≫
三代教主のそば近くに仕える機会が多く、その指導と影響をつよく受けた。
草花をこよなく愛し、伝統文化を重んじ、茶道・能楽・八雲琴等に造詣が深く、信仰即生活即芸術の道を実践して、大本の教風を高めた。

全国各地を巡回して信徒と親交。折々の挨拶等で信仰の内面充実を強く諭し、信徒の教化指導にあたった。

脳死臓器移植や遺伝子組み換え作物などの生命倫理問題に警鐘をならしつづけ、脳死臓器移植反対署名活動では自ら街頭に立って署名を呼びかけた。

≪著書≫
「草木によせて」(平成12年、天声社刊)など。

出口紅(くれない) 五代教主(1956〜)

歴代教主・教主補のご神業を継承発展。現代の大本信仰を導き、みろくの世建設のために、多岐にわたる活動を指導されています。

≪出生≫
昭和31年(1956)、京都府亀岡市に生まれる。
三代教主の孫、四代教主の姪。

≪就任≫
平成13年(2001)4月29日、四代教主の昇天により五代教主に就任。
日本の伝統文化に力を注いだ三代教主・四代教主の影響を強く受け、恵まれた環境のなか、早くより茶道、能楽に親しむ。
教主に就任以降、機織り、陶芸にも取り組み、茶盌、水指、茶入など、多くの作品を残す。

≪開教120年を越えて≫
教主就任以降、開祖以来の変わらぬ教風「月日と土の恩」を大事な柱としながら、開教120年を機に、神業進展にともない、時代に即した神苑整備を進める。
綾部・梅松苑には「おり工房(機場)」「つる山農園(菜園)」を開設し、大本窯芸道場とともに、良き雛型(モデル)となることを願い「みろく村」を開村。
亀岡・天恩郷には、神教宣布の根本霊場として、開教以来初めて大道場専用講堂「神教殿」を、さらに大ホール、作品展示用ギャラリー、ミニシアター、立礼茶室も備えた「みろく会館」を建設。内外の参拝・来苑者を迎える環境を整える。
「食・農・環境・エネルギー」を視野に、大本・人類愛善会、一体となっての活動に重点を置き、次の次代を見据えてのあり方を指導している。

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