人類生活の原理 「四大綱領」(しだいこうりょう)
一、祭(まつり)惟神の大道 <政(せい)万世一系>
一、教(おしえ)天授の真理
一、慣(ならわし)天人道の常
一、造(なりわい)適宜の事務
人にはそれぞれ、神から与えられた本分(使命)があります。人生の本分をつとめあげるために必要な、日常生活の原理を四大綱領といいます。
人はこの「祭」「教」「慣」「造」の原理にそって生きることによって、幸せな人生を送り、世の中を明るく平和にしてゆくことができるのです。
祭(さい・まつり) 惟神の大道 政(せい)万世一系
まつりとは「真釣り」の意味で、全く釣り合うことをいいます。神のみ心と自分の心がまったく釣り合った状態が神とのまつりの状態、神人合一の状態、無限の権力が発揮される状態です。
神とのまつりあわせは、経のまつりです。同様に経のまつりとして、天界と地上世界のまつりあわせがあります。また緯のまつりとして、宇宙環境、地球自然環境、社会環境、人間環境のまつりあわせがあります。
つまり、まつりとは神と人との間だけでなく、宇宙のすべてのものの間に行われているものであり、私たち人間相互の間にもまつりがあります。このまつりが崩れると、幸福はなく、調和が崩れ、平和は到来しません。
人間相互のまつり
ここで、人間相互のまつりについて考えてみましょう。
私たちの身近なところでは、まず夫婦のまつりあわせがあります。男女は同権ですが、大本では 夫唱婦随 と教えています。夫は家の大黒柱です。妻は夫をたて、夫に従いながら家を治めていく役割があります。縫い物にたとえると夫は針、妻は糸です。針である夫が縫い代をすすみ、その後を糸である妻が従ってすすんで、縫い上げられていきます。この 夫唱婦随 の基本が崩れると、夫婦のまつりが崩れてしまいます。
親と子にも、まつりがあります。親は子を養い育てる義務があり、これをいい加減にしていると、子供の性格までもゆがんできます。一方子供は、養い育ててくれる親を愛し敬うのが、本来の姿です。家庭で起こる諸問題の多くは、親と子のまつりあわせができていないことに起因します。
先生と生徒の間のまつりは、教える側と教わる側というけじめが大切です。これが師匠と弟子のまつりとなると、教える側と教わる側のけじめがより絶対的なものとなります。師匠の指導は絶対として素直に受け取ることで、弟子は師匠の技術のみならず精神までも吸収していくことができるのです。
このほか、先輩と後輩、友人同士など、身近なところでいろいろなまつりがあります。それぞれそのまつりのあり方は異なりますが、正しいまつりあわせが行われていけば、そこには幸福があり、調和があり、平和なのです。
自然とのまつり
動植物の世界にもまつりが行われています。草食動物は植物を食し、肉食動物は草食動物を食し、すべての生命は土に帰って植物の養分となり、それぞれが生成化育していっています。大自然の営みの中で、植物、草食動物、肉食動物の三者が見事にまつりあって、それぞれの子孫を残し、はぐくんでいるのです。
宇宙大に目を移せば、宇宙の中では小さな存在である太陽系宇宙でも、太陽の周りを地球などの惑星が衝突することもなく、規則正しく運行しています。そのまつりが、無限に広がる宇宙の彼方まで絶妙に行われているのです。
人体も小宇宙と言われ、あらゆる臓器が、すべての細胞が、まつりあって動いています。このバランスが崩れると体調を崩したり病気になったり、生命をむしばんでいきます。
このように、まつりとは宇宙の普遍的リズムであり、すべてのものは大神さまの神格であるこのリズムによって動いているのです。
神霊との和合
すべての組織には中心があります。全大宇宙の中心は、天地宇宙をお創りになった主の神です。この中心の主の神とまつりあわし、そのご恩に対して感謝の気持ちを表すことが、まつりであり、祭祀です。
神をまつるあり方として、顕斎と幽斎の二つがあります。さまざまな形式を整え、荘厳にして美しく楽しく行うものを顕斎、神霊に対して自身の霊をもって行うものを幽斎と言います。
日本の神道では、昔から祭を顕斎と幽斎に分けています。幽斎は、体的な対象なしに、あるいは形式なしに神に対するものです。顕斎は、ある一定の儀式にしたがってお祭りすることで、神さまの宮を作りお供えをしたり、朝夕のお礼をするということは、顕斎にあたります。
顕斎は「祭るの道」、幽斎は「祈るの道」で、どちらも大切です。顕斎のみにかたよるのも、幽斎のみにかたよるのもよくないと示されています。
正しいまつり
人は神に目ざめ、万物は神のみ心によって、神のみ恵みの中に生かし育てられていることを悟る時、おのずから、神さまに対する感謝の心がわき上がってくるものです。人の心の中にあることは必ず言動となって現れますが、この神さまに対する感謝の念は、神を斎きまつるというやむにやまれぬ心情となって現れるのです。また、神さまのみ心に真釣り合い、神のみ国をこの地上に移してゆくためには、まず、神さまに祈りをささげることからです。この感謝の心が行為となって現れたのが「祭り」です。
大祓いの意義
神に仕えるには、修祓、潔斎が不可欠です。大本の祭典は、種々の罪穢、科過を大麻(切火、塩水の祓いもあります)で、それぞれの心、身体を清めた上にも祓い清めて、祭典を始めます。そこには、神さまから付与されている霊魂を増殖させ、新しく祓い清められた霊魂に神さまのご守護をうけ、すがすがしく祭典に奉仕、参拝し、ご神徳を頂くものです。
『大祓いはすなわち天地の真釣りなり』と示されていますが、信仰生活の第一歩は、祓いの実践からはじまります。朝夕奏上する祝詞は祓いの言葉であり、浄化・潔斎につながっていくものです。
神を斎きまつるには、顕斎と幽斎の区別をわきまえ知らざるべからず。
真如ここにそのことを証せん。
顕斎は天津神、国津神、八百万の神を祭るものにして、宮あり、祝詞あり、供物あり、御弊ありて、神のご恩徳を称えて感謝の心をあらわす尊き業なり。
幽斎は誠の神、天帝を祈るものなれば、宮も社もなく、祝詞もなく、御弊もなく、供物もなし。ただ願うところのことを霊魂をもって祈りたてまつる道なり。
つづめていうときは、顕斎は祭るの道にして、幽斎は祈るの道なり。
まことの神は霊なれば、その尊き霊に対して祈るは霊をもってせざるべからず。
顕斎のみにかたよるも悪しく、幽斎のみにかたよりすぎるも悪しきなり。
祭るには偶像も悪しからず、ただし偶像目あてにして幸わいを祈るはよろしからず。
祈りは霊魂をもって天の御霊に祈るべきなり。 (出口王仁三郎)
教(きょう・おしえ) 天授の真理
大本の「教」は、天授の真理です。天とは神のことですから、天地を創造された神から授けられた真理を教えとしています。神は絶対的なご存在であり、大本の教えは、人間的な考えや私的な都合などはいっさい含まない、絶対的なものです。そして、大本の教えは、時、所、人を問わず、時代を問わず、また現界、霊界を問わず、どこでも、だれに対してでも、絶対的な真理なのです。
教典・教説書・教書
特に二大教祖である出口なお開祖、出口王仁三郎聖師をとおしてまことの神から伝達された天授の真理が、根本の「教」です。大本では、開祖の筆先に聖師が漢字を当てた「大本神諭」(全7巻)、聖師が口述した「霊界物語」(全81巻83冊)を二大教典とし、聖師が示した「道の栞」「道の光」を加えて教典としています。教祖が直接示した教えが教典です。
それ以外の聖師の論文、随想、道歌、歴代教主・教主補の教示を教説書、時代の教主の教示を教書としています。神書とは、教典、教説書、教書の総称です。
強制の力が必要
教の方法は、外から内へ与えることと、内なるものを引き出すことの二方面があります。この二つの方法は、同時一体となって行われるべきです。前者は、教を豊かに学ばせるために外から与えることであり、後者は、生まれながらに宿っている神性を引き出し、それを成長させることです。
出口日出麿尊師は 教えること について、「緒強う」という字を当て、「オは魂の緒で霊魂のこと、教というのは悪い方の魂の緒をだんだんと強いて良くしてゆくという意味であります。これは、悪い方を純化してゆく向上的な手段であります」と示しています。霊魂の悪い面は強いて抑え、良くしていくことです。また良い面は、困難を排してそれを引き出し、伸ばしていくことです。したがって、教には強制の力が必要です。
「なくて七癖」と言われ、だれでも自分の考え方、価値観、また態度や動作に現れる癖があります。
しかし、それが正しいとして自分勝手に生活していたのでは、この世に争いごとは絶えません。
特に、自分の考え方、価値観の中には、神がもっとも戒めている「われよし」「強い者勝ち」という悪の要素が、多分に含まれています。大本の教えは天授の真理ですから、悪の要素が含まれていません。この教えを実践することによって、神が願われるみろくの世が実現していくのです。
「感恩」「鍛錬」「順序」
尊師は、天授の真理である教の中で、、「感恩」「鍛練」「順序」の大切さを示しています。
まず「感恩」。いろいろの理屈を知ったり、知識を得ることよりも大切なことは、ありがたいという気持ちを持ち、また友情、誠とはどういう力であるかを知ることです。
私たちの行動は、根底にある感謝の気持ちから発しているものです。人間は片時も、神の恵みなくしては生きてゆけません。しかし、私たちはこのみ恵みに慣れすぎていて、神のありがたさを忘れてしまいがちです。教えをとおして、改めて神の感恩を悟らせていただきましょう。
次に「鍛錬」。真の自分をつくり上げていこうと思えば、それだけ苦しまなければなりません。それだけ鍛錬されなければならないのです。
最後に「順序」。これは、物と物との関係、人間同士の上下、左右の区別などをしっかりとわきまえていないと、真の教え、物の道理がわからないということです。
まず神書拝読から
教えを実践するには、まず神書を拝読することです。手を清め、口をすすいで、清らかな気持ちで神書に向かい、二拍手をして拝読しましょう。大切なことは、神の教えを素直に項くこと。そして、声を出して音読することです。音読することにより、自分の頭の中だけでなく、自分の中の守護神、また回りの霊にもみ教えが浸透していき、自分の血となり肉となっていきます。拝読をしたら、示されていることを実践していくことに努めましょう。
大本の教典は普遍的な真理です。また、歴代教主の教えは、それらの教典を時代に即して分かりやすく説き、時代時代の神の経綸の柱となるものです。教えに基づいて、神の目から見て何が正しくて、何が間違っているかを判断し、神のみ心に添える行い、生活の実践に心がけていきたいものです。
慣(かん・ならわし) 天人道の常
慣とは「天人道の常」と示され、天道の常、すなわち神が定められたならわしと、人道の常、人としてのならわしをさしています。
神が創造した宇宙のすべてのものは、天道のならわしのもとに活動しています。すべての物の軌道は慣そのもので、地球と太陽、大宇宙と太陽系など、みな、神が定めた慣によって動いています。また人も、神が定めた慣が備わっています。そういう意味で、天道と人道は一体のものであると言えます。
人間はだれでも、さまざまな癖、いろいろな習慣を持っています。その中で、生まれながらにして先天的に持っている習慣があります。これは、五倫五常といわれる君臣、父子、夫婦、長幼、親友の守るべき道があります。また一霊四魂の働き、すなわち、五情の戒律といわれる省みる、恥る、悔いる、畏る、覚るという、人間の霊魂の中に備わっているものがあります。これらは、神から授かった人間の慣性です。
同時に、生まれてから日常生活の中で、後天的な慣性が身に付いてきます。それによって生活のリズムができ、規律が生まれ、社会で生きていくすべを身につけていきます。
尊師は
「人を仕込むにも、教を先にしたらわからぬ。型からはいらせなくては身にしまない。真理に導くためには、慣ということは非常に大事なものであります」と示しています。口で言うよりも、実際に体験させることで、体にしみこんでくるのです。
私たちが信仰生活をしていく上で大切なことは、知らず知らずのうちに身に付いた癖を直すことです。よくない習慣は、生まれながらに神から授かった一霊四魂をも曇らせてしまうことになります。み教えに基づいて悪い慣を直し、良い慣をつくっていくよう心がけたいものです。
造(ぞう・なりわい) 適宜の事務
造は「適宜の事務」で、人の天職使命である地上天国建設のために適材適所に従事する職業のことです。尊師は「造は自分の思うままをつくること、創造すること、自己の自発的衝動のままに行うこと」と示しています。
慣や教にとらわれず造の生活をしているのは、赤ん坊です。神さまから頂いたままの清浄無垢な状態で、朗らかな生活をしていますが、人間として生まれた以上は、慣や教を身につけ、祭の境地まで進まなければいけません。造は慣を作り出します。造を悪く利用すると悪い慣が、造をよく利用すればよい慣ができます。造を行わせる力とは、人間の本能であり、神から頂いた先天的な意志です。
私たちは、なんらかの職業を持って生活しています。私たちが神から頂いている天職使命は、地上天国建設のご神業に奉仕することで、すべての人に共通しています。そして、それぞれの職業に従事し、その職業に励み、職業を通してこの天職を果たしていくことが、私たち人間に課せられた使命なのです。
一人ひとりが真の目的に向かってそれぞれの仕事に励むことで、世の中は一歩一歩みろくの世へと前進していきます。そして、生業の中で信仰生活を実践していくことが、私たち信仰者にとって最も大切なことです。