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「反教団事件」の本質

「反教団事件」について


大本は、出口なお開祖、出口王仁三郎聖師のお二方を教祖とし、このお二方の道統は、出口すみこ二代教主、出口直日(なおひ)三代教主、出口聖子(きよこ)四代教主、出口紅(くれない)五代教主(現教主)と、神定のままに今日まで受け継がれています。
大本は、明治25年(1892)2月3日の節分の夜、開祖に国祖の大神が帰神し、「三千世界の立替え立直し」を宣言して、綾部の聖地に開教しました。
その開教よりこの120年余りの歴史を振り返ると、開祖の時代から、聖師、二代教主、三代教主、四代教主、そして今日の五代教主の時代まで進められてきた神業(※)は、その時代時代で、潮のうねりのごとく、表面に現れる姿は異なって見えるものの、その根底には末代変わらない神意が流れています。その神意とは、生きとし生けるすべてのものが幸せに暮らせる「みろくの世」をこの地上にうち建てることです。

※大本では、神意(宇宙の意志)のもとに進められる活動を「神業(しんぎょう)」という


二つの「反教団事件」

さて、昭和50年代、大本の中で二つの「反教団事件」が表面化しました。
大本は過去に、戦前・戦中にかけて、日本政府から二度にわたる宗教弾圧(「第一次大本事件」「第二次大本件」)を受けたことで知られていますが、この「反教団事件」はそれまでに遭遇した弾圧事件とは異なり、教団外から起こされたものではなく、いずれも教主のお身内(出口家)から起きたものでした。それだけに、晩年の出口直日三代教主(M35.3.7-H2.9.23)のご心労は大きく、また信徒もその混乱の渦に、多かれ少なかれ巻き込まれざるをえなかった不幸な事件でした。
一つは、三代教主の長女・出口直美氏とその夫・栄二氏にかかわる事件、もう一つは、おもに三代教主の甥(おい)・出口和明氏にかかわる事件で、二つの事件は法廷闘争にまでいたりました。
当時の「反教団事件」により、“同信の友”と思っていた人たちが、結果として、別の道を歩むことになりましたが、事件に直面した信徒一人ひとりが学んだことも少なくありませんでした。それは、大本の道統の尊さや、大本信仰のあり方についてでした。
大本には、その時代の教主が、開祖、聖師以来の道統を継承し、地上における神の代行者として、大いなる神の意思を受けつつ、救いの神業を遂行されるという信奉があり、ここに大本信仰の独自性もあります。つまり、大本信徒は、その時代の教主を通して、神に対して「主一無適の信仰」を捧げているのです。
このことは開教以来今日に至るまで、そして今後も変わることのない大本信仰のあり方であり、信仰の根幹といってよいものです。
「反教団事件」を起こした人たちの問題は、三代教主を軽視し、三代教主の指導のあり方に真っ向から反対しながら、大本の活動を妨げ、教団の秩序を紊乱(ぶんらん)したことにありました。そのため、その反教団活動の主導者たちは懲戒処分を受けました。このことは、社会の常識に照らして見ても、ある団体の中でその構成員がその団体や団体長を公然と批判し、反対行動を行うというような、順序を乱す造反行為は許されないということと同様です。

訴訟終結から20年余を経て

平成3年(1991)12月8日、一連の反教団訴訟がすべて終結し(※)、亀岡天恩郷・万祥殿で、「訴訟終結奉告祭」が執行されてから、今日まで20年余が経過しました。
この間、反教団活動に加わった人たちは、信仰の「中心」の違いによって大本から離脱し、今では大本とは別の道を歩んでいます。
出口和明氏らのグループは昭和62年12月16日、亀岡市内に宗教法人「愛善苑」を設立。「愛善苑」では祭神(礼拝対象)を変更するなど、大本とは全く別の教団になりました。(出口和明氏は平成14年6月死去)
また、出口栄二氏らのグループは(栄二氏自身は平成18年12月死去)、現在、「大本信徒連合会」と称し、綾部市内を中心に活動を続けているようです。同連合会は自らを「大本」と名乗っているものの、その実体を見れば、独自の教主(出口直美氏)、独自の礼拝施設・活動拠点・会計・機関誌・役員・信徒・地方組織を持つ、大本とは全く別の団体です。

(※)出口栄二氏は昭和56年12月8日、解任された斎司・祭教院長等の地位の確認を求めて、京都地裁に提訴。また出口和明氏らは昭和57年4月9日、解任された宣伝使等の地位の確認を求めて京都地裁に提訴。被告は宗教法人大本。
裁判は10年近くの係争の末、出口和明氏らは昭和63年9月22日に、出口栄二氏は平成2年10月12日に、いずれも訴えのすべてを無条件で取り下げて終結した。

教嗣(きょうし)変更の真相

ところで、「反教団事件」当時の昭和57年5月26日、三代教主の長女・出口直美氏の教嗣(教主継承者)の立場が変更された経緯は、大本の中では周知のことですが、30年余を経て、知識を持たない方々もおられるかもしれません。
三代教主の長女として生まれ、聖師・二代教主にとっては初の内孫であった出口直美氏は、幼少のころより“将来は大本の四代教主に就かれる”と大本信徒のだれもが思っていました。ところが、「反教団事件」の発生によって状況が変わりました。直美氏は、次代の教主となる教嗣として教団を指導しなければならない立場にありながら、「反教団事件」を主導した夫・栄二氏を制止せず、同調したことが明らかになりました。そのため、三代教主がまさに断腸の思いで下されたご決断が、そのときの教嗣変更だったのです。
そのご決断にいたるまでの経緯が詳しく記されている三代教主の文章「清泉(せみ)の小川を」と、そして、当時、新たに教嗣に就かれた出口聖子四代教主による思い出の記「ご神意のまにまに」をご熟読いただけましたら、当時、なぜ、教主継承者・教嗣の変更という、大本にとって極めて重要な事柄が行われたのか、その真相がよくお分かりいただけるものと存じます。

進展する大本神業

この20年余の間、反教団活動者が大本から離脱した一方で、大本の神業は進展しました。
出口聖子四代教主の時代に、平成4年、教団は開教百年を迎えました。
出口王仁三郎聖師が、

長生殿(ちょうせいでん)建ち上がりたるあかつきは
神の経綸(しぐみ)も漸(やうや)く成らむ

と詠まれていた神約の宮「長生殿」が、全信徒のまごころの結晶により、綾部の聖地に完成。神業は「長生殿時代」へと突入しました。
平成13年(2001)4月29日、出口 紅 教主が大本の道統を継承し、五代教主に就任。
開教百二十年記念事業も始まり、綾部梅松苑ではみろく殿に万霊社を新設、亀岡天恩郷では神教殿(大道場専用講堂)・みろく会館・大本会館が建ち上がるなど、綾部・亀岡両聖地の整備が進み、首都東京では東京本部新会館が完成しました。
さらに、大本歌祭や芸術作品展の全国開催、モンゴル本部の設立、ブラジルの首都ブラジリアへの進出、台湾道院など世界諸宗教との協力関係の復活など、大本の活動は国内外に展開し、神業は「みろくの世への実践」の時代へと進展を続けています。


「清泉(せみ)の小川を」
「ご神意のまにまに」
大本教主について